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理事長トピックス

学祖三島中洲忌墓参の会挨拶

二松學舍創立135周年に際し、5月12日(土)、創立者三島中洲墓参の会を実施いたしました。この日は、三島中洲忌にあたります。
当日、参加者の方々への、水戸理事長のご挨拶を掲載いたします。


 佐佐木・佐藤両顧問、奥井名誉役員ほかお歴々には、遠方にもかかわらず、本日の二松學舍学祖三島中洲忌墓参の会に多数ご参集頂き、ここに厚く御礼申し上げます。本墓参の会は、本学が本年創立135周年を迎え、その周年記念事業の一環として行うこととなりました。中洲忌墓参の会は、大田区、上池台の墓地からこの霊園に移転した平成11年に行われて以来2度目となります。本年は中洲先生没後93年目、生誕後182年目にあたります。

 中洲先生は天保元年12月に備中中島村(現倉敷市)に生まれ、14歳で、備中松山藩の陽明学者、山田方谷先生に師事、24歳で江戸に入り、幕府の最高学府である昌平黌に学びました。また維新後の明治5年、42歳で司法省に入り、大審院判事など歴任。明治10年、47歳の時に「漢学塾二松學舍」(現在の二松學舍大学)を創設しました。その後、東京帝国大学教授、学士院会員となり、東宮侍講として大正天皇に漢学などを教授。大正8年90歳で永眠されました。文字通り明治を代表する大漢学者、法律家であり、明治の碩学のお一人であり、何よりも二松學舍の学祖であります。
先生の墓碑は、大田区上池台墓地にありましたが、周囲が住宅地と化したため、没後80年に当たる平成11年に、富士を仰ぐこの富士霊園に改葬されております。墓碑には孟子の公孫中からひいた「自ら反みて縮くすんば、千万人といえども吾往かん」と刻され、先生の「良心に恥じることが無ければ、常に堂々と自ら諸事を切り開いて行こう」という気構えを表しています。このほか、先生の墓といわれるものには、いわゆる生歯の碑が2つあります。生歯の碑とは父母や師君を慕い、尊敬して、その墓所の近くに自分の生歯を己の分身として埋め、そこに碑を建てる風習があったわけです。備中高梁市、方谷先生の寓居跡がある頼久寺の裏山、秋葉山の山麓、ここには中洲先生の奥様とご養女の墓所があり、その傍に生歯の碑を建てております。また生誕地の倉敷市実相院実際寺、三島家の菩提寺でありますが、ここの御父母の墓の傍にも生歯の碑が建立されています。

 本学は創立135周年を機会に、10年後20年後、さらに飛躍した大学、両附属高校、同中学校を実現するための長期ビジョンの作成を、現在約50名以上の若手教職員が主体となって、行っております。本日、本会に因み、学祖中洲先生の墓碑の字句どおり、「長期ビジョンの実現は本学に必要なことであり、万難を排して、これを実現していくという決意を新たにした」次第であります。これからも皆様の諸所でのお力添えをお願いしたく、ご挨拶に代えさせていただきます。本日は重ねてご参集に御礼申し上げます。