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水戸英則理事長の140周年記念三島中洲碑墓参挨拶

二松學舍創立140周年に際し、5月13日(土)、創立者三島中洲墓参の会を実施いたしました。この日は、三島中洲忌の翌日にあたります。
当日、参加者の方々への、水戸理事長のご挨拶を掲載いたします。


本日は、大山顧問、法人役員、学長、両副学長、松苓会会長他役員、枢要部長等皆様には、大雨、遠方にもかかわらず、二松學舍学祖三島中洲忌墓参の会に多数ご参加頂き、ここに厚く御礼申し上げます。本墓参の会は、本学が本年創立140周年を迎え、その周年記念事業の一環として行うこととなりました。中洲忌墓参の会は、大田区、上池台の墓地からこの霊園に移転した平成11年と本学135周年記念でちょうど5年前に行われて以来3度目となります。本年は中洲先生没後98年目、生誕後187年目にあたります。

 皆さん、ご存じのとおり、中洲先生は天保元年12月に備中中島村(現倉敷市)に生まれ、14歳で、備中松山藩の陽明学者、山田方谷先生の牛麓舎に入塾、19歳の若さで塾頭になり、24歳で江戸に入り、幕府の最高学府である昌平黌に学び、高杉晋作や依田学海など人脈を作りました。帰藩後は板倉勝清公率いる備中松山藩において山田方谷に仕え、藩政改革で力を発揮、維新後の明治5年、明治政府の徴用をうけ42歳で司法省に入り、新治裁判所長、大審院判事など歴任。明治10年、47歳の時に麹町四十三番地の私邸に「漢学塾二松學舍」を創設しました。その後、東京帝国大学教授、学士院会員となり、東宮侍講として大正天皇に漢学などを教授、大正8年90歳で永眠されました。文字通り明治を代表する大漢学者、法律家であり、明治の碩学のお一人であり、何よりも二松學舍の学祖であります。
 先生の墓碑には、皆さんお気づきになったことと思いますが、先生が好んで使われた『孟子』の「公孫丑章句」から引いた
自反而縮 雖千萬人吾往矣   
自ら反みて縮(なお)くんば、一千万人といえども吾往かん
という言葉が刻され、先生の「良心に恥じることが無ければ、常に堂々と自ら諸事を切り開いて行こう」という気構えを表しています。
 
本学は創立135周年を記念しN‘2020PLAN を策定、公表しましたが、140周年を機会に、現在、さらに飛躍した大学、附属高校、附属柏中学校・高校を実現するためのN‘2030PLANの作成を、開始しております。この実現につきましては、本日の本会に因み、学祖中洲先生の墓碑の字句どおり、「長期ビジョンの実現は本学に必要なことであり、万難を排して、これを実現していくという決意を新たにした」次第であります。これからも皆様の諸所での力添えをお願いしたく、ご挨拶に代えさせていただきます。本日は重ねて、ご参集に感謝申し上げます。