建学の精神と養成する人材像

建学の精神

「東洋の精神による人格の陶冶」
「己ヲ修メ人ヲ治メ一世ニ有用ナル人物ヲ養成ス」
「故ニ仁義道徳ヲ以テ基本ト為サザルベカラズ」

養成する人材像 (建学の精神の現代的解釈)

「日本に根ざした道徳心を基に、国際化、高度情報化など、知識基盤社会が進む中で、自分で考え、判断し、行動する、各分野で活躍できる人材」

 明治10(1877)年10月10日、漢学塾創立時の三島中洲の考え方は、「今の時代は東洋の文化を学ぶことこそわが国本来の姿を知り得る。東洋学の確立と新時代を担う国家有為の人材の育成を目指すことが必要」としました。この脈々と流れる中洲先生の「育英」の志を今後も引き継いでいくため、現在推進中の長期ビジョン「N’2030Plan」では、その目的を設置校である二松学舎大学、同附属高等学校、同附属柏中学・高等学校の「教育の質を更に高め、学習者本位の教育体制の構築を進めること」に設定しています。その基本フレームワークは、「21世紀型教育体制の構築」であり、大学、両附属高等学校・中学校の教育の質の更なるレベルアップに重点を置いています。フレームワークの構成は、先ず建学の精神である「東洋の精神による人格の陶冶」、「己ヲ修メ人ヲ治メ一世ニ有用ナル人物ヲ養成ス」「故ニ仁義道徳ヲ以テ基本ト為サザルベカラズ」を基本として、これを現代的に解釈し「日本に根ざした道徳心を基に、国際化、高度情報化など、知識基盤社会が進む中で、自分で考え、判断し、行動する各分野で活躍できる人材を養成する」としています。そしてこの人材像実現のための教育ビジョンとして、『知識・スキル・人間性』の三位一体の教育(後掲図参照)を行うために必要な各設置校のカリキュラムをデザインし、実施します。次にこの教育ビジョンを実現するため、大学は「『国語力』という評価を定着させながら、数理データサイエンスを含む教養教育をカリキュラムに取り入れることで、社会に貢献できる自律した人材」を、附属高等学校、附属柏中学・高等学校は「『論語』による人格形成を促し、探求型・体験型事業展開を通じて、将来を切り拓く『学力』を身に付けた人材」を養成することとしています。

三位一体の図

創立者と校名の由来

三島 中洲

創立者三島中洲写真画像

 三島中洲(ちゅうしゅう)。名は毅(き)、字は遠叔。江戸後期、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれました。11歳から学問を志した中洲は、14歳で儒学者山田方谷の門に入り朱子学、陽明学を学び、さらに和洋折衷を唱えた斎藤拙堂のもとで見識を深め、昌平黌(江戸幕府の最高学問所、今の湯島聖堂に所在)において総長の佐藤一斎(陽・朱陰王とも呼ばれた)に学びました。30歳の時、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝静とともに激動の幕末を経験。明治維新後には、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めました。明治10(1877)年10月10日、官を辞し、千代田区三番町(当時は麹町一番町)のこの地に、大学の前身である「漢学塾二松学舎」を創立し、多くの子弟を育成、漢学・東洋学の発展に尽力。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任しました。

漢学塾二松学舎 再現CG動画


「二松学舎」校名の由来

二松学舎校名の由来画像

 二松学舎(にしょうがくしゃ)の「二松」とは、読んで字のごとく二本の松のことです。「二本の松」とは「学問をする場所」の象徴で、中国は唐の時代の名文家・韓愈(かんゆ)の「二本の松を向かいあわせに植えて、日々その松の樹の下で書物を読んだ」(「藍田県丞庁壁記」)という故事によります。これは、漢学を学ぶ者にはよく知られており、創立者である三島中洲も自作の漢文「二松學舍對」にこの故事を引き、「余が庭にも二松あり(中略)学舎に命じて二松と曰ふ」とその名の由来を記しています。二本の松は、校舎が新しくなっても中洲の精神とともに受け継がれ、平成16年に竣工した現在の九段キャンパス1号館正面左奥、九段2号館の入口前(漢学塾二松学舎時代に植えられてあった場所とほぼ同一の場所)に植えられています。