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二松学舎列伝

二松学舎に学んだ人々

二松学舎列伝 創立者(学祖)三島 中洲

三島 中洲
創立者(学祖)
三島 中洲

三島中洲(ちゅうしゅう)名は毅(き)、字は遠叔。天保元年、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれた。11歳から学問を志し、14歳で儒学者山田方谷の門に入り陽明学を学んだ。さらに斎藤拙堂のもとで見識を深め昌平黌において佐藤一斎に学んだ。30歳の時、備中松山藩に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝靜とともに激動の幕末を経験した。明治維新後、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めた。明治10年、官を辞し「漢学塾二松学舎」を創設。多くの子弟を育成し、漢学・東洋学の発展に尽力した。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した。

二松学舎列伝 第3代舎長 渋沢 栄一

渋沢 栄一
第3代舎長 渋沢 栄一
(1840~1931)

埼玉の富農の家に生まれる。家業を手伝う一方、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠(官営富岡製糸場初代工場長)から「論語」などを学ぶ。渋沢と三島中洲との関係は、渋沢が 1882(明治15)年9月より東京帝国大学講師として日本財政論を担当するようになってからだが、直接には1883(明治16)年、渋沢が前室宝光院(俗名千代)の碑文を中洲に依頼したときにはじまる。渋沢は第一国立銀行の総監役(後に頭取)就任以降、多くの企業の創設・育成に関わった。その中で、「論語」の倫理思想を現代的に解釈し、「道徳経済合一説」を説き続けたが、これが中洲の思想とも符合し、たびたび歓談の機会ができたのだろう。次第に親交も厚くなっていった。1919(大正8)年、第3代二松学舎舎長に就任し、二松学舎の発展に尽力する。なお学術方面の功績としては、「二松学舎講義録」(自大正12年4月第1号至大正14年9月第3号)の創刊号より完結号(第3号)まで論語講義を担当、大正14年10月、合冊し「論語講義」(乾坤二巻)として二松学舎出版部から刊行したことだろう。

二松学舎列伝 第5代舎長 吉田 茂

吉田 茂
第5代舎長
吉田 茂

東京生まれ。東京帝国大学卒業後、外務省に勤務し各国の大使を歴任。戦後は吉田内閣を組織し、7年余の政権のなかで、新憲法の発布やサンフランシスコ平和条約締結など戦後復興の礎を築いた。吉田は明治初期における自由民権運動の先覚者、竹内綱の五男として生まれ、 1887(明治20)年、9歳で貿易商吉田健三の養子となる。幼少の頃は漢学塾にも学び、また養母士子(ことこ)は、有名な漢学者佐藤一斉の孫であったことから、人格形成には、漢学が大きな影響を与えたと考えられる。岳父牧野伸顕が二松義会の顧問を務めたこともあり、 1963(昭和38)年、二松学舎舎長に就任した。

二松学舎に学んだ人々 第1回 夏目 漱石

夏目 漱石
夏目 漱石
(1867~1916)

夏目漱石は、近現代文学史にそびえる明治時代の文豪の一人であり、英文学者でもある。文学を追究し続けた漱石にとって、少年時代、漢学塾二松学舎で学んだことが、彼の小説における儒教的な倫理観や東洋的美意識を磨いたといわれる。小説のほかにも漢詩や俳句を多く残した漱石の二松学舎時代を見てみよう。明治 14(1881)年4月、夏目漱石(本名・夏目金之助)は、当時漢学塾だった二松学舎の門を叩いた。その年の「二松学舎入学者名簿」には「塩原金之助」の名が記載されている。『二松学舎百年史』によれば、漱石が学んだころの二松学舎の状況について、漱石は次のように語っている。

学舎の如きは実に不完全なもので講堂などの汚なさと来たら今の人には迚も想像出来ない程だつた。真黒になつた腸の出た畳が敷いてあつて机などは更にない。其処へ順序もなく坐り込んで講座を聞くのであつたが、輪講の時などは恰度カルタでも取る様な工合にしてやつたものである。
漱石は、明治 14年7月に第3級第1課を、同年11月に第2級第3課を卒業した。 授業内容は次のようなものであった。
  • 第3級第1課
    唐詩選、皇朝史略、古文真宝、復文。
  • 第2級第3課
    孟子、史記、文章軌範、三体詩、論語。

多くは3級程度で、2級以上の学力を有する者はまれだったという。漱石が在籍していたのは、わずか1年ほどだったが、多感な少年時代に二松学舎で培った漢詩文の知識と教養は、文豪のその後の人生に大きな影響を与えた。

二松学舎に学んだ人々 第2回 嘉納 治五郎

嘉納 治五郎
嘉納 治五郎
(1860~1938)

嘉納治五郎は、明治が生んだ偉大な教育家であると同時に、日本におけるスポーツの発展に功績を遺したことでも知られる。万延元(1860)年、摂津国御影村(現兵庫県神戸市)に生まれた治五郎は、10歳の時、母を亡くし、11歳で父とともに上京する。そこで、まず漢学を学び始める。その後、書道、英語などにも意欲的に取り組み、16歳の時、開成学校に入学。翌々年に開成学校が改称され、東京大学となり、治五郎は同大学文学部第一年に編入される。明治11(1878)年、治五郎19歳の時に、二松学舎塾生となる。

東京大学を卒業後、学習院で政治学・理財学を講じ、同年、英語学校の弘文館を創設。その後も高等中学校長、高等師範学校長、さらに文部省普通学務局長などを歴任。普通教育、師範教育の基礎を確立し、教育の振興に尽力する。また、中国人留学生の教育にも貢献した。明治10(1877)年、二松学舎が創立されるのと同じ頃、各地で柔術を行う学校が出てくるようになり、治五郎も天神真楊流に入門する。それからわずか2年、柔術の師福田八之助の死により、遺族から委託され、弱冠20歳で道場の指導を継承。明治15(1882)年5月には、講道館を設立し、従来柔術と称された古来の武道を改良して、その研究指導にあたり、近代柔道の礎を築く。明治42(1909)年には、国際オリンピック委員に選ばれ、明治45(1912)年、ストックホルムで開催された第5回オリンピック大会へ日本初参加を果たす。常に教育の振興と柔道精神による社会教化をはかった治五郎。講道館の創設とその後のスポーツ発展への努力は、教育者・嘉納治五郎の一側面としてとらえることができるかもしれない。

民藝運動の提唱者・柳宗悦は治五郎の甥にあたる。1914(大正3)年、治五郎の勧めで我孫子に移り住んだ柳宗悦の招きにより、志賀直哉、武者小路実篤など白樺派の作家らが集まり、本学柏キャンパスにもほど近い手賀沼周辺は一時その拠点となった。