中国生まれ、日本育ち。満州族。専門は遊ぶこと。その傍らに文学やゲームなどの現代中国の文化を研究。著書に『闇の中国語入門』(ちくま新書)などがある。早稲田大学文学研究科にて博士(文学)取得。
大人とは子どもの欠如である
一般的に、子どもは大人になっていく途中の、大人になりきれていない存在だと考えられている。しかし、本当にそうなのだろうか。むしろ逆に大人とは子どもが持っていたいろいろなものが抜け落ちたものなのではないか。大人とは子どもの欠如なのではないか。ここ数年、子どもの観察やゲームと「遊び」の研究を通して、ますますこのような疑念を深めていった。
子どもは常に遊んでいる。ところ構わずに急にかくれんぼを始めたりする。それに対して大人は遊ばない。オフィスでかくれんぼしたらクビになる。そしていずれ遊べなくなってしまう。その意味で、子どもは遊ぶ存在であり、大人は遊ぶ能力が欠如した存在である。しかし、学校で真面目に勉強しているものこそ重要で、むしろ遊ぶことは多くの場合有害だというのが常識である。遊ぶことはまさにその「常識」を疑わせる。
そもそも子どもたちは何のために遊んでいるのだろうか。かくれんぼは何のためにも役に立たないし、楽しいから遊んでいるというのも一面的である。そこに緊張やストレスが含まれているからだ。したがって、答えは何のためでもないということになる。その目的は遊びの中にあって、その外にはいくら探しても見つからないようなものである。それに対して仕事や勉強は、お金を稼ぐため、より知識を得るため、就職を有利にするため……といった外部の目的を持つ。言い換えれば、仕事や勉強は何かのための「手段」でしかないのに対して、遊びはそれ自体が「目的」を生む。
真面目に勉強して、仕事をすることが良いという「常識」にしたがってしまうと、私たちの日々の活動や生活のすべてが別の何かのための「手段」になってしまう。その果てに、仕事や勉強に明け暮れる自分の人生自体が「手段」となってしまい、それ自体を「目的」として肯定できなくなる。自分は何のために生きているのかと、子どもが抱かないような疑問を抱くようになる。
私たちはよりよく遊ぶことを学び、遊び心を身につけることで、人生の豊かさを取り戻すことができる。それによって私たちは大人から子どもへと成長できる。
鏡の中の自分にジャンケンで勝つ遊び