學vol.72

二松学舎創立150周年特別企画Nisho Chronicle【二松クロニクル】第1回ひげの向こうの中洲先生 今も生きるホテリエの志

二松学舎創立150周年特別企画Nisho Chronicle【二松クロニクル】第1回ひげの向こうの中洲先生 今も生きるホテリエの志

今号から始まる二松学舎創立150周年に向けた特別企画。初回は、創立者である三島中洲先生の知られざる一面やおもしろいエピソードを、『二松学舎百年史』に収録されている塾生たちの回想から紹介したいと思います。ページの最後には、二松学舎に関連したクイズも用意しましたので、皆さん挑戦してみてください!

エピソード1

温和で中立的で威張らない尊敬される人柄

 当時の日本を代表する漢学者、そして法律家としても活躍していた中洲先生。威厳があり近寄りがたい大学者というイメージが強いかもしれませんが、実際は、温和で優しい性格、そして中立的な考え方の持ち主だったようです。

「私が先生にはじめてお会ひした時の感じをいふと、ごく高ぶらぬ、ちよつと見ると学者らしくないやうに見えるお方であつた。身長も私より小さいくらゐの、小柄な方であつた。ごくおだやかな方で、おそるべき威厳を備へた方ではなかつた。」(平野猷太郎氏「その頃」より)

「先生は何事も中庸で、極端なことを嫌はれた。当時、学者や文人仲間には矢張り派が分かれてゐて争つたものだが、先生にはさういふことがなかつた。…(中略)…殊にあれだけの学者であられて威張るといふことがすこしもなかつたのは吾々の最も敬服したところである。」(松平康国氏「二松学舎の思ひ出」より)

 いつの時代にも、どの世界にも必ずある〝派閥争い〟。そういったことにも加わらず、威張ることもしなかった中洲先生。若い塾生たちから、慕われ尊敬される人柄だったことがわかりますね。

エピソード2

実は洋服も好きだったおしゃれな中洲先生

 皆さんが思い浮かべる中洲先生は、どんな服装をしていますか? 大学案内や二松学舎小史『明治10年からの大学ノート』、ホームページ等に掲載されている中洲先生は和装が多く、漢学者という肩書からも、大半の方は「着物」をイメージされるのではないでしょうか。肖像画や写真を見ても、着物の着用率が圧倒的に高い中洲先生ですが、実は洋服も好まれていたようです。

「私が拝聴した中洲夫子(先生)の講義は八家文であつた。夫子のお住居の寒流石上一株松舎の庭と講堂との間に枝折戸が設けられてあつて夫子はそこから講堂に臨まれたが、多くは瀟洒たる洋服姿であつた、さうして光まばゆき金時計を載せたセツトを卓上の見台の脇に置かれ、中国訛りのいとも温和な口調で、諄々として誰にも会得される平易な解説を加へられたが、その風采は髣髴として今尚ほ眼前に見えるやうである。」(織田萬氏「五十四年前の憶出」より)

 これは、明治16年頃の回想と思われますが、その頃の中洲先生は54歳くらい。よく見かける肖像画よりも少し若い中洲先生が、おしゃれな洋服を身につけ、中国の文人が書いた書物を優しくわかりやすく解説する姿を想像し、講義を聞いてみたいと思ったのは私だけではないですよね?

エピソード3

皇太子からの信頼もあつかった
頼みを断るはっきりした一面も

 中洲先生の経歴にある「東宮侍講」。どんなことをしていたか、皆さんわかりますか。辞書で調べると、「東宮」=「皇太子の称」、「侍講」=「君主に奉仕して、学問の講義をすること」と書かれています。つまり、皇太子に学問を教えるお役目ということです。中洲先生がこの職に就いたのは、明治29年67歳の時ですから、当時皇太子であった大正天皇の教育係だったというわけですね。

「皇太子様は始終先生をお呼び寄せなされて、ある時には大年(大晦日)にも、「明日も来よ」等と仰せられたので、明日は大年でございますから休ませていただき度うございます等申し上げた事もあつたと云ふ事でございます。」(岡田起作氏「中洲先生の御遺訓」より)

 この回想を読むと、当時皇太子であった大正天皇からあつい信頼を寄せられていたことがわかると同時に、皇太子からのお願いをさらりとかわしてしまう中洲先生のはっきりとした一面に、くすりとさせられます。

参考文献 『二松学舎百年史』学校法人二松学舎発行/『日本国語大辞典』第二版、株式会社小学館発行/『三島中洲と近代―其一―』二松学舎大学図書館発行

學vol.72

広報誌 『學』アジアと世界の架け橋へ。