學vol.64

特集:“古典”が織りなす映像美~千年の時を超えてつながる今と昔~片渕須直氏×原由来恵教授

特集:“古典”が織りなす映像美~千年の時を超えてつながる今と昔~片渕須直氏×原由来恵教授

デジタル化、グローバル化の進展などにより、価値観やライフスタイルが多様化する今、長い歴史の中で受け継がれてきた「古典」から私たちが学ぶこととは——? 片渕須直監督のアニメーション映画『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』は、観る者が時を忘れて没入する説得力があります。その背景には、研究者と同等の深い考証が存在しました。そこで今回は、平安朝文学、伝承論が専門の原由来恵教授と片渕監督が、古典の魅力、そして表現することについて語り合いました。

千年の時を超えて、
清少納言が映画につながる

 片渕監督の次回作は、千年前の平安京が舞台だそうですね。どのような経緯で、着想を得られたのでしょうか?

片渕 僕が高校生だった頃、古典の授業中に級友と「ひさかたの光のどけき春の日に しず心なく花の散るらむ」(紀友則)という歌について議論したことがありまして、「静心」なのか「賎心」なのかというようなことでした。その時、解釈次第で千年以上前の作者の心境をありありと思い浮かべられるということがわかり、今思えばそれが古典への興味が生まれた瞬間だったかもしれません。
 それから時をへて、2009年に映画『マイマイ新子と千年の魔法』を公開しました。作家の髙樹のぶ子さんがご自身の幼少期をモデルに描いた小説が原作です。この映画は昭和30年代の山口県防府市が舞台で、髙樹さんの子ども時代をモデルにした主人公・新子という女の子のほか、主要キャラクターとして子供時代の清少納言も登場します。新子ちゃんの家の前は青々と広がる麦畑だけれど、おじいさんが「ここは千年前に国の都があったんじゃ」と話すのです。実際、周防国の国衙があって、今でもそこには国衙というバス停があります。

 この映画を制作している際、防府市まで足を運ばれたそうですね。

片渕 ええ、そうです。すでに麦畑はなく、住宅地に変わっていました。でも、その近くで一町(※1)ぐらいの幅の敷地を発掘調査していました。寝殿造りの邸宅が入る広さです。市の文化財課の方に「ここは平安中期の周防守の館だったのでは」と聞いてみると「その可能性はあります」と。もしかしたら、ここは清原元輔が周防守だった時の邸宅で、娘の清少納言が満8歳ぐらいで住んでいた場所なんじゃないかなと思ったわけです。それに、『枕草子』を読むと、清少納言は性格も新子ちゃんのように活発だったことがわかります。こうした体験が、千年もの時を超えて、同じくらいの年齢で似た性格の子どもがいて……、という映画の構成につながっていったわけです。

※1 当時の一町は108メートル。一尺は現在の9.78寸。 

©髙樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

©髙樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会
『マイマイ新子と千年の魔法』から、清少納言が一人ですごろくをしているシーン。

考証は今とつなげるために
絵空事で終わらない

 今のお話を聞いて感動しました。まさに、実証から映画を作られているのですね。学生も現地を調査するフィールドワークを行いますが、想像力を働かせ、過去と現在が結びつくような体験をしてほしいです。

片渕 この映画では、子どもだった頃の清少納言が一人ですごろくをしているシーンがあります。「こう来たか!」「じゃあ次はこうだ」とか言っているのですが、実は全て『源氏物語』に登場する近江の君のセリフと同じです。近江の君は、清少納言を意識して書かれた人物という説もあります。牛車の上に卯の花を飾る場面は『枕草子』にありましたし、海岸で「子の日の遊び」をしている場面(※2)は『元輔集』にあるのです。古典に書かれていることを文字通りに絵にしたら映画ができてしまいました。

※2 「子の日の遊び」は平安時代、正月初めの子の日に催された遊宴行事。郊外の野辺に出かけて小さな松の木を引き抜いてくるという貴族たちの遊びの一種で、長寿を祝い和歌を詠むなどした。『元輔集』にはそれを海岸で行ったという歌が残っている。

 きちんと考証があって描かれているから、キャラクター像や出来事が絵空事のように見えないのですね。

片渕 この作品以降、どんどん『枕草子』の時代が気になり出して、次回作の題材にならないかと考えました。2017年には、フランスで開かれた映画祭に『枕草子』『枕草子解環』(※3)、それから『栄花物語全注釈』などを持って行きました。ホテルのベッドの上に広げて、滞在中はずっと読んでいたんです。

※3 平安文学で功績のある国文学者で本学名誉教授の萩谷朴氏が、本文解釈学の方法論樹立を目的に、三巻本『枕草子』本文の徹底的な解釈を行った研究書。

 『枕草子解環』はかなり実証派の解釈で、証拠として様々な文献を並べていますよね。軽い気持ちでは読めないので、片渕監督の覚悟が伝わってきます。文学を本当に理解するためには、コンテクストの背景まできちんと見なければなりません。それも想像するだけではだめで、やはり実証することが大切だと思います。
 以前、お話を聞いた時、『この世界の片隅に』(2016年公開)でもかなり史実をお調べになったとおっしゃっていました。

片渕 あの映画は昭和16年の広島県呉市が舞台で、主人公の浦野すずが、戦時下を生き抜く姿を描きました。呉は灰ヶ峰などの山に囲まれたすり鉢状の町で、戦争中は山の上に高角砲があったのです。海軍は敵の飛行機が来るとラッパを鳴らして伝えていたはずだな、と思って、町を取り巻く山のあちこちからラッパが鳴ったら、どんな聞こえ方をするのかなあ、と。右からも左からもステレオ音響のように聞こえるでしょうから、映画館で再現しました。この映画を観た人が「映画館を出たら目の前にあったのが呉の町じゃなくてびっくりした」と感想をおっしゃっていました。

 緻密に考証された事実が、創作活動に結実していることがよくわかります。

片渕 人の想像力で作れることは、割と早く限界が来ます。でも、現実に起きたことはそれ以上の世界をたくさん教えてくれます。『枕草子』の時代の平安京では、決まった時間に鐘が鳴るのですが、その鐘の音は東西南北によって周波数が違い、若干ずれて聞こえたようです。実験はこれからですが、次回作も映画館でしか味わえない音響になるかもしれません。

片渕須直さん

かたぶち・すなお●1960年生まれ。日本大学芸術学部特任教授・上席研究員。大学在学中に『名探偵ホームズ』の脚本を手がけてから、今年で42年目。監督作はTVシリーズ『名犬ラッシー』(96)、『BLACK LAGOON』(06)、長編『アリーテ姫』(01)、『マイマイ新子と千年の魔法』(09)、『この世界の片隅に』(16)、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(19)など多数。現在、疫病の中に生きる千年前の人々を描いた新作映画を制作中。

文学研究は総合科学
様々な角度の分析が必要

 古典を含め、だれかの表現を用いて自分の作品にすることは、実は「怖さ」を含むと思います。人それぞれの心に『枕草子』なり『マイマイ新子』があるので。でも、片渕監督は、元の表現を知っている人が納得できるだけの実証をされているため、みんなタイムマシンに乗ってしまいます。

片渕 映画を観たお客さんと一緒に、現地を歩くことがあるんですよ。『この世界の片隅に』で、主人公が買い物に出かけた帰り、遊郭に迷い込む場面があります。呉の町を歩きながら「ここですずさんが道を間違えて」と説明をしていたら、参加者の一人が「監督の話を聞いていると、すずさんが本当にいるみたい」とおっしゃいました。実証と言うとアカデミックな感じがしますが、僕としては「その世界を味わいたい」という気持ちが大きいですね。

 文学研究は「総合科学」だと私は思っています。文学を深く理解するには歴史の知識は必須ですし、それこそ山の音の反響や、周波数も知らなきゃいけない。様々な角度から分析する力が必要です。片渕監督は、そうした力を使って唯一無二の作品を生み出していらっしゃいますね。まるで、『新古今和歌集』の選者のメンバーの一人で『小倉百人一首』の選者にも擬せられている藤原定家のようだと感じました。
 世界を見ても、日本ほど千年前の文学作品が残っている国はあまりありません。日本は、国だけでなく一個人も文学作品を守ってきました。例えば、公家の人々が詠んでいた和歌を、時代の流れの結果として台頭してきた武士は無視しませんでした。武士も和歌を学んだり憧れを持ったりして、『勅撰和歌集』が続いてきたのです。紀貫之が書いた『土佐日記』は南北朝時代には失われましたが、藤原定家は貫之自筆本を写していて、その一部は貫之の字を臨書したものです。また、定家の子為家が忠実に写したものも伝わっていて、貫之の字の面影を知ることができます。

©2019こうの史代・コアミックス/「この世界の片隅に」製作委員会

©2019こうの史代・コアミックス/「この世界の片隅に」製作委員会
『この世界の片隅に』から、遊郭で道に迷ってしまったすずのシーン。

デジタル技術によって深まる理解

片渕 実は映画界ではそれに近い土壌がありました。例えば、戦時中、海軍が着ていた軍服の資料は、戦時前から映画を撮っていた映画会社の衣装部に途切れなく引き継がれてたんです。戦後の戦争映画で飛んでいる零戦の音は、戦時中に録音した本物の音だったという話もあります。ただ、今は撮影所システムがなくなり、それぞれが独立して映画を撮るようになったので、過去の記録を引用できなくなってきています。僕なんかも、全て一から調べなくてはならないのです。

 そうした状況を知ると、ご自身で考証されていることがよりすごいと感じます。
 ところで、近年は古典とデジタルの融合も進んできました。例えば、歌舞伎にプロジェクションマッピングを使うなど、新しい試みが始まっていますね。私は、デジタル技術を使って古典をわかりやすくすること自体は必要なことだと考えています。ただ、作り手にはちゃんと考証してほしいですし、観る側もそこで思考停止せず、その表現を評価する力を持ってほしいと思います。

片渕 少し違う方面のデジタル化の話になりますが、僕は調査したものをまとめるのにエクセルを使っていて、昔と比べるとかなり便利になったと感じています。年表なども、手書きでは難しいダイナミックな方法で編集ができるので、それが新しい発見につながったり、理解を深めるのにとても役立っています。

 研究においてもデジタル化は必要ですね。片渕監督は、映画制作の過程で私たち研究者と同じことをされているので驚きました。本当に緻密に進められていますね。

片渕 やはり事実を絵にするということにはすごく慎重になります。もしも間違えて描いてしまって映画を観た人が、それに引きずられたら申し訳ないですから。

原 由来恵教授(二松学舎大学 文学部 国文学科)

はら・ゆきえ●二松学舎大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。二松学舎大学着任後、専任講師、准教授を経て現職。専門は、平安朝文学、伝承論。『知の遺産シリーズ②伊勢物語の新世界』(武蔵野書院)、『恋する人文学』(翰林書房)、『日本文学の空間と時間―風土からのアプローチ』(勉誠出版)など。

千年前とつながっている今
いつの時代も変わらない人の営み

 表現をすることは大変ですが、影響力が出てくるほど、「そういうものだ」という印象を与えてしまいますものね。今日のお話を聞いて、改めて片渕監督の作品は「本物」だと思いました。

片渕 ありがとうございます。最近、また『枕草子』を読んだのですが、映画のシナリオに似ているなあと感じます。その場にあるものや見えるものを細かくト書きにしていく脚本にそっくりなのです。エピソードの書き方もなんだか映画のワンシーンのように感じます。これが脚本なのだとしたら、清少納言は全部を伝えるのではなく、一番印象の強いところだけにピントを合わせて描写していることになります。

 『枕草子』には、事実や興味の中で一番言いたいことが書かれていながらも、あえて虚構を織り混ぜているとも解釈できるところがあったりします。そういった背景も含め、どうしたらここに描かれているような場面になるのか、清少納言が置かれていた状況を考えて謎解きをする面白さもありますよね。古典文学はある意味読み解きだと思います。

片渕 そうなんです。そして、推理する根拠をどこから見つけてくるのか。そういった楽しさもあるということをわかってもらえるといいですね。

 古典は難しいと思われがちですが、そもそも文学は人の営みを表現するものです。苦手意識を持たず読んでもらえれば、一つの人生模様や感情があらわされていて、千年前の人も今の私たちと同じように感じていることがわかるはずです。
 さて、最後に片渕監督から今の若者たちにメッセージをお願いします。

片渕 僕らが目の前で接しながら生活している世界、それが千年前まで延長できる楽しさをぜひ味わってください。

 私はとにかく片渕監督の作品を若い方に観て欲しいです。本物の作品は、何度観ても違った感動を得られます。それは、リアリティがあるからです。古典文学も能や狂言、歌舞伎もそうですが、本物でなければ後世に残らないという厳しさがあります。これだけたくさんのアニメーションがある中で、片渕監督の作品は『枕草子』のように残っていくのではないでしょうか。

『つるばみ色のなぎ子たち』

『片渕監督の次回作情報

舞台は平安京。『マイマイ新子と千年の魔法』に登場した千年前の少女が歩むその後の道のりが描かれます。

Youtubeで紹介映像公開。ぜひご覧ください。※2025年公開予定。(2023年3月現在)

https://youtube.com/playlist?list=PLcnc0rjhZYFbmWzypfSPxNna46vGocKR7

特集:“古典”が織りなす映像美 ~千年の時を超えてつながる今と昔~片渕須直氏×原 由来恵教授

多角的に作品をとらえる力を身につける〜文学と創作コンテンツの関連性

多角的に作品をとらえる力を身につける〜文学と創作コンテンツの関連性

文学部国文学科/学務局長 五月女 肇志 教授

そうとめ・ただし 二松学舎大学文学部国文学科教授。学務局長(2023年3月現在)。2005年東京大学大学院で博士号取得。06年度から本学勤務。専門は中世文学。23年3月まで西行学会代表を務める。著書に『藤原定家論』(笠間書院、2011年)。本学国文学科編『東京 文学散歩』(新典社、2014年)で「アニメの街・田無」を担当。

研究者と創作者の立場——古典の映像化を通して文学部国文学科/学務局長 五月女 肇志 教授

 二松学舎大学文学部国文学科には映像・演劇・メディア専攻が置かれていて、現代の漫画、アニメ、映画、テレビ、ゲーム等を深く学ぶことが可能です。創作の授業も多く開講されています。国文学専攻の古典文学の授業においても映像作品が積極的に用いられています。映画の世界で活躍中の先輩もいます。

 私の担当するゼミナールでは『百人一首』を中心に自分の好きな和歌を解読してお互いに討論する授業を行っていますが、歌人の恋物語を描く『超訳百人一首 うた恋い。(以下、うた恋い。)』(KADOKAWA)、競技かるたに打ち込む高校生の姿が見られる『ちはやふる』(講談社)等の漫画、アニメも度々取り上げます。卒業研究のテーマに選ぶゼミ生もいます。それは単に画像、映像を理解の助けや導入のために使っているわけではありません。

 創作に携わる漫画家、映画監督等の方々は最新の研究成果をしっかり勉強して作品に取り入れることもしばしばです。先に挙げた『うた恋い。』では「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」という歌を詠んだ藤原義孝が登場しますが、歌の解釈は古くから「あなたに会うためであれば命も惜しくなかったのに、あなたに会った後は長く生きたいと思った」というものでした。『うた恋い。』では、仏教信仰が篤い義孝像を通じて「惜しからざりし命」を、死後の極楽浄土を願っていたとする、従来と異なる学説が反映されています。さらに式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」という激しい恋歌は、思いを寄せる相手は実際誰かと詮索された研究史がありますが、「忍ぶる恋」という題を与えられて『源氏物語』等恋物語に出てくるような登場人物の心情を想像して詠んだという最新の学説を、「恋愛ごっこ」という言葉で表現しています。映画版『ちはやふる』の三作目では、平安時代の代表的な歌合である『天徳四年内裏歌合』の恋歌の勝負を競技かるたの試合と重ね合わせて最後の山場を展開しています。天皇が口ずさんだために優れた歌として勝ちを与えられたという古典文学のエピソードを巧みに利用しています。取り入れられた古典文学を正確に理解していると、これらの漫画、映像作品をより深く味わうことができるのです。

『超訳百人一首  うた恋い。』を観賞しての授業風景

『超訳百人一首 うた恋い。』を観賞しての授業風景

 古典文学作品の中には解釈が現代の研究でも確定していないものも少なくありません。歌人の伝記についてもわからないことが数多くあります。私達文学の研究者は確証がない場合はそのことを明言しなければいけないのですが、創作する立場からは曖昧なままにはできません。たとえ推測にとどまっても読者、視聴者が納得できるような完結した世界を示す必要があり、研究者に負けないほど勉強し調査を続けている方々も少なくないのです。

文学部の学びの特色

文学部の学びの特色

自分が目標とする学びを
4学科の多様な専攻から組み立てられます。

 基礎をしっかり固めながら専門までの科目を着実に学ぶカリキュラムになっています。所属学科と異なる学科の専門科目も履修できるので、たとえば国文学科の古典のゼミに所属しながら都市文化デザイン学科の現代文化、中国文学科の漢文、歴史文化学科の時代背景に関する科目などを学ぶことも可能。多様な専攻から学びを組み立てることで、研究に深みと広がりを持たせます。

『超訳百人一首  うた恋い。』を観賞しての授業風景

INTERVIEW〜学生に聞きました

佐々木晴香さん(文学部国文学科4年次生)

 私の専攻は「国文学」ですが、専攻科目のほか4年間でさまざまな授業を履修しました。「表象メディア講義」という授業では、演劇や映画を分析したり、また、小説やエッセイを実際に書いたこともあります。「芸能・演劇演習」ではテキストの朗読を行いました。「源氏物語特殊研究」では、くずし字を読むなど、どの授業もそれまでには経験したことがないもので、いろいろな視点で物事を見る力や自分の言葉で考え、伝える力が身についたと思います。所属していた近代文学のゼミナールも自由度が高く、演劇や映画、文学のジャンルから本人の興味に沿ったテーマで卒論を書くことができるため、ずっと研究したかったことを探究することができ、とても満足しています。

 “学び”はここで完結するものではなく、“物語”は本やテレビ、映画の中だけのものではないと思います。それらは、私たちの生きる社会と繋がっています。これから社会に出て、たくさんの人と出会い、生きていく中で、大学で学んだことを最大限に生かしていきたいです。

※役職や学年は2023年3月現在のものです。

學vol.64

広報誌 『學』アジアと世界の架け橋へ。