學vol.55

特集:日本オリンピックの父 嘉納治五郎

特集:日本オリンピックの父 嘉納治五郎

二松学舎大学の眼下にある日本武道館は、1964年、柔道が初めて競技種目となった東京オリンピックの競技会場として建設されました。その柔道の創始者である嘉納治五郎は、「漢学塾二松学舎」時代に本学で学んだ一人です。アジア初のオリンピックが東京で開催されてから56年。2020年東京オリンピック・パラリンピックで日本は再び世界の注目を浴びることになりますが、「柔道の父」「日本オリンピックの父」と称される嘉納治五郎の本質が、教育者であるということは意外と知られていません。そこで彼の生涯と教育者としての理念を、本学との関わりと共に紹介します。(取材協力/公益財団法人 講道館)

社会の幸福を考えた「柔の道」

講道館の正面に建つ嘉納治五郎の銅像(写真提供/公益財団法人 講道館)

講道館の正面に建つ嘉納治五郎の銅像
(写真提供/公益財団法人 講道館)

22歳で「柔道」を創始。社会を良くするため「教育者」の道へ

 嘉納治五郎は、1860年に摂津国御影村(現・兵庫県神戸市)の裕福な商家(「灘の酒」として有名な菊正宗の酒造と廻船問屋)の三男として生まれました。満10歳の時、明治政府に招聘され先に上京していた父親のもとへ。教育熱心な父の影響もあり、治五郎は漢学や書道を学ぶ私塾のほか、上京後は英語やドイツ語、数学などを学ぶ私塾に通い学問に励みます。15歳で官立東京開成学校に入学、その後東京大学へ進学。19歳の時には二松学舎にも入塾し三島中洲先生から漢学等を学びます。昼は大学に通い、夜は漢学修行をしていました。治五郎にとって、この頃の漢学修行が最も力のついた時代だといわれています。

 身体の小さかった治五郎は、腕力の強い先輩に見下され悔しい思いをしたことから、身体を鍛えるために「柔術」への興味を深めます。「学科の上ではおくれをとることはなかったが、極めて虚弱な身体であり、肉体的には大抵の人に劣り、他から軽んぜられた。幼少の頃から、日本には柔術というものがあり、非力なものでも、大力に勝てる方法があると聞いていたので、柔術を学ぼうと考えていた」とし、学問に励む一方で道場にも熱心に通うようになります。

 そんな中、柔術が身体だけでなく、精神の安定にも非常に有効であることを知り「これは自分だけのものにするのではなく、広く誰でもできるようになればいい。国民みんなに分かち合うべきものだ」と考えるようになります。

 繰り返し練習して「身体で覚える」というそれまでのスタイルではなく、新しい時代にふさわしいものを作る必要があると考えた治五郎は、技を「崩す」「作る」「掛ける」の三つに分解するなど、「心身の力を最も有効に使用する」独自の理論を確立。1882年、22歳で講道館柔道を永昌寺(台東区)において創始します。

 自身が開発した方法を実践ではもちろん、教本も作り座学でも教え始めると、「講道館では、小さな者が大きな者を投げ飛ばしている」と評判になります。上京していた若者が、学んだことを地方に帰ってから広めたため、創設当初、数人しかいなかった門弟が、4年後には約100人、7年後には約1000人余りの規模に膨らみました。

 英語などの語学にも堪能だった治五郎は、その方法を言語化し国外にも広く伝えていきます。その後、柔道で最も大切なことは「精力善用」(心身の力を最大限に効率的に使い、社会に対して善い方向に用いる)や「自他共栄」(相手を敬い他人他国も共に栄え発展していこう)であるという理念にまで高めていきますが、社会を良くするために力を尽くしたいとするその思いは、治五郎の教育家としての本質でもあります。

日本だけにとどまらない教育への情熱

 講道館柔道を立ち上げるのと同時期に治五郎は、学習院に奉職し、教頭職を務めます。その後、文部省に転じますが、1893年からは東京高等師範学校校長を20年以上の長きに亘り務めることとなります。

 1916年のある日、東京高等師範学校の生徒全員を講堂に集め、「自分は若いとき大学を出て、総理大臣になろうか、それとも千万長者になろうか、と考えていたこともあった。かけがえのないこの生涯をささげて悔いなきものは、教育をおいてほかに考えられないという結論に達して、教育に向かった」と語った通り、生涯を通じて日本の学校教育の充実に尽力した治五郎ですが、「自他共栄」の理念のもと、中国(当時の清)からの留学生を国費で初めて受け入れ、隣国の発展のためにも力を注ぎました。留学生の中には、魯迅をはじめ近代中国の学術界を担うことになった人物も少なくありません。

講道館柔道資料館の学芸員、本橋端奈子さんにお話をお聞きしました

世界の柔道家の聖地「講道館」

東京都文京区春日1-16-30

講道館には、外国の方が多く訪れます。昨年日本で開催されたラグビーワールドカップの際には、フランスの代表チームによる表敬訪問がニュースでも伝えられました。世界には様々なスポーツがありますが、その起源がはっきりしているものは多くありません。そんな中、柔道は、嘉納治五郎が創始者であることがはっきりしており、また資料も数多く残っています。講道館にはそれらの資料展示室や図書館、また道場や宿舎も備えてありますので、世界の柔道家にとってみれば、一度は訪れてみたい「柔道の聖地」となっているようです。

世界の人々と交わり平和をつくる「五輪」への思い

 1909年、治五郎はアジアで最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員になります。自ら各国を飛び回り、柔道の理論と実践を広めていた治五郎は、欧米でも講道館柔道の創始者としてよく知られた存在でした。

 1912年、第5回オリンピック・ストックホルム大会に日本は初参加し、治五郎は団長として同行。国を超えて人々が祭典に参加するさまを見た治五郎は、やがて日本での開催を主張するようになります。「これまで欧米だけでしか開催されてこなかったが、アジアの日本で開催することで、本当の世界のオリンピックになる。政治、人種、国家の事情に左右されないのが、オリンピック精神のはずだ」と。日本国内でも、オリンピックムーブメントが起き、東京での第12回オリンピック夏季大会と、第5回冬季大会札幌開催の決定に向けて、治五郎は奔走します。1938年にエジプトのカイロで開かれたIOC総会に出席した治五郎は、開催地についての最終承諾を得るという重責を果たしながら、帰途についた氷川丸船中で肺炎のため急逝。その後、日中戦争の影響もあり東京・札幌の開催は返上され、幻のオリンピックとなりました。

 治五郎は、近代五輪の父であるクーベルタン男爵が唱えたオリンピック観の「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」に自らの理念である「自他共栄」を加えるように主張したと言われています。オリンピックを巡る活動においても、国を超え、相互に交流を深め共に栄えていこうと主張した治五郎は、柔道を始め日本スポーツの道を切り拓いた先駆者であるとともに、真にグローバルな感覚を持ちえた教育者であったといえるでしょう。

テボ バンサンさん

テボ バンサン 日本で柔道を学ぶため、フランス大手金融機関の日本支社に職を得て1990年に初来日、現在に至る。フランス大手金融機関の日本支社CEO、アセットマネジメント会社CEOを歴任。柔道五段、古武道、武士道を高く評価する。

●「講道館」でインタビュー!海外柔道事情

カフェと同じようにポピュラーな道場

当時最先端の漢詩から、ジャパンオリジナルな和歌として表現した

 私が柔道と出会ったのは7歳の頃。それからずっと「道場」で稽古を続けています。今は講道館で週に3回ほど、またお正月に行われる「寒稽古」にも毎年参加しています。日本の柔道の競技人口は約15万人です。対してフランスは約55万人。フランスでは、教会、図書館、パン屋、カフェと同じように、小さな村にも道場があり、その数は5700にのぼります。そしてたいてい嘉納師範の写真が飾ってあります。フランスでは、ともすると日本より嘉納師範の名前も顔もとても有名です。子どもでも知っていますし、大変尊敬されています。尊敬される理由は、身体が小さくても年を取ってからでも、誰でも柔道ができる、その方法を作った人だからです。
 フランスでは、子どもたちを教育のために道場に通わせます。良い人間性を育てるためには「柔道に任せてください」というキャッチフレーズが昔からあり、健康や体力づくりのためもありますが、もっと大切な学びを柔道から得ることができる、と考えられているからです。
 黒帯を与えられると道場を開き、仕事として教えることができますが、大切な柔道の「価値」=コードモラル(Code moral)として、8つの行動規範が定められています。コードモラルは、「友情」「勇気」「謙虚」「名誉」「自制」「礼儀」など。漢字で表記もされ意味を詳しく説明しています。
 日本だと柔道を熱心にやっていても「趣味」だと言う人がいますが、柔道は私にとって生きる道、そのものです。若い学生・生徒の皆さん、東京でオリンピックが開催されるこの機会に、日本の素晴らしい伝統やそこに流れる精神について、もう一度勉強してみてはどうでしょう。それが柔道を通じてであればなお嬉しいです。本当に誰でも、何歳からでも柔道はできますから。

子どもたちに柔道を勧めるフランスのポスター
Fédération Française de Judo et Disciplines Associées

世界と対等に渡り合ったグローバルな視点の礎にある漢学

嘉納治五郎は、自身で創作した言葉を数多く残しています。二松学舎時代に漢学修行を重ね、東洋的な教養や思想の造詣を深めたことが、彼の人生や理論に大きな影響を与えたことが伺えます。

 1922年に嘉納治五郎が提唱した「精力善用」「自他共栄」。二つの言葉を合わせると「心身の力を最も有効に使用して己を完成させ、その己を使って社会を良くする」という意味になります。これは、講道館柔道の原理と目的を最もよく表しており、本質とされています。道場で行う技の練習は、「精力善用」「自他共栄」を学ぶ手段の一つに過ぎない。すなわち精神と身体を最も有効に使用できるようになったら、その自分を使って社会を良くするために尽くす。それこそが「柔道」という「生き方」の「道」であるとし、治五郎が、自らが確立した柔術を「柔道」とした所以でもあります。
 この考え方は、本学の建学の精神「己ヲ修メ人ヲ治メ一世ニ有用ナル人物ヲ養成ス」(自ら考え行動できる能力を鍛え、社会のために貢献する人物を養成する)とも一致しており、治五郎はそれを体現した人生を歩んだ人物とも言えます。
 創立当初の漢学塾二松学舎の舎則には、「漢学大意(漢学を学ぶ意味)」としてこの理念がうたわれています。治五郎が創立者である三島中洲先生から、直接その理念を学んでいたということは十分に考えられるでしょう。

嘉納治五郎書、1920年代(写真提供/公益財団法人 講道館)

嘉納治五郎書、1920年代(写真提供/公益財団法人 講道館)

〈孔子祭の復活〉三島中洲先生に宛てた手紙

 嘉納治五郎は、東京高等師範学校の校長を務めていた頃の1906年、三島中洲先生に宛てて、湯島聖堂の「孔子祭」復活に際し発起人になってほしいという旨の手紙を送っています。
 江戸時代、幕府直轄の教育機関であった昌平坂学問所(現・湯島聖堂)をはじめ、多くの藩校では孔子祭が行われていましたが、明治維新の変革においてその歴史が途絶え、以後長らく行われてきませんでした。しかし、その一方で儒教に基づいた道徳教育の必要性を唱える動きもあり、治五郎も活動の中心メンバーでした。そして1907年、中洲先生も発起人の一人となり、治五郎を初代祭典委員長とした湯島聖堂での孔子祭が復活しました。

二松学舎大学附属図書館所蔵

二松学舎大学附属図書館所蔵

〈参考文献〉
『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』(日本図書センター)
『嘉納治五郎 その生涯と精神』(株式会社イデア・インスティテュート)
『嘉納治五郎大系』11巻 嘉納治五郎伝(本の友社)
『嘉納治五郎師範の言葉』(講道館)


 

古賀稔彦さんインタビュー「優しさが強さを生む 嘉納治五郎先生から学んだこと」

古賀稔彦さんインタビュー「優しさが強さを生む 嘉納治五郎先生から学んだこと」

瞬時に相手が畳の上で仰向けになってしまう背負い投げで私たちを魅了し、「平成の三四郎」の異名をとった古賀稔彦さん。バルセロナ五輪では左膝の靭帯損傷という大けがを負いながら金メダルを獲得しました。ところがご本人は意外にも自身を「弱い人間」と称します。それはどうしてか? 言葉の背景には嘉納治五郎という存在の大きさがありました。

東京オリンピック・パラリンピックを前に

 オリンピック・パラリンピックは選手たちだけの大会ではありません。応援する人たちとも一体になる祭典です。昨年日本で開催されたラグビーワールドカップの会場を思い出してみてください。観客が敵味方の分け隔てなく一緒になって声援を送っていました。そして試合が終われば“ノーサイド”。お互いに健闘をたたえ合う。東京オリンピック・パラリンピックでも是非体感してほしいと思っています。
 スポーツは人と人とをつなげます。現役時代の私は「勝つか、負けるか」の世界に生きていました。ところが引退して、自分が柔道を伝える立場になると、それだけでいいのだろうか、と考えるようになったのです。そこで改めて向き合った言葉が嘉納先生の教えである「精力善用」と「自他共栄」。前者は、自分の身体と思考のエネルギーを日常生活でよい方向に使う、後者は、相手があってこそ成り立つ柔道ではお互いに敬意と思いやりをもって共によくなっていくようにしなければならない。それはラグビーのノーサイドの精神にも近いと思いますが、私なりに表現すれば、柔道を通して「優しい人になる」ことです。
 当道場には、なかなか試合には勝てないけれど後輩を気づかったり、率先して掃除をしたりする子どもがいます。そういう子どもには周囲の人たちも自然と応援したくなるんですね。すると本人も頑張れる。普段の優しさが自分を応援してくれる人を増やし、そのことで強くなっていくのです。

人は変われる

 私は、人見知りで、大人に声をかけられたら顔を真っ赤にしてしまうような子どもでした。ところが柔道衣を身につけ畳の上に立つと「負けたくない」という気持ちが湧き上がってきた。そのとき「人は気持ち次第で変われるんだ」と思いました。「変われる」と思えれば、子どもは頑張れるし、指導者も成長していけるでしょう。
 「なんでうちの子は勝てないんですか」と親御さんに言われて、こう答えたことがあります。
 「試合場に一人で上がり、勇気を振り絞って大きな声を出す。そして強い相手にも挑む。それだけでも大変なことなんですよ。勝っておごらず、負けて腐らず。礼をして帰ってくる。すごいじゃないですか」と。そのとき、自分が嘉納先生の教えである「勝っておごらず、負けて腐らず」を自然に語っていることに気づきました。

嘉納先生だったらどうするか

  それから私は指導者として子どもたちと接するとき、「嘉納先生だったら、どんな言葉を選んで、どんな行動をとるのだろう」と自問するようになりました。自分の経験値で教えるのではなく、そこに嘉納先生の言動を想像して上乗せしていくと言えば良いでしょうか。
 私は柔道の指導を通して優しさを伝えることで、子どもたちに魅力ある人であり、選手になってもらいたい。古賀塾が競技柔道ではなく、教育柔道を掲げているのはそのためなのです。

協力:日本スポーツエージェント

學vol.55

広報誌 『學』アジアと世界の架け橋へ。