建学の精神
HOME > 大学案内 > 建学の精神

建学の精神と養成する人材像

建学の精神

「東洋の精神による人格の陶冶」
「己ヲ修メ人ヲ治メ一世二有用ナル人物ヲ養成スル」

養成する人材像 (建学の精神の現代的解釈)

日本に根ざした道徳心を基に、国際化、高度情報化など、知識基盤社会が進む中で、自分で考え、判断し、行動する、各分野で活躍できる人材を養成する。
明治10年10月10日、漢学者であり明治法曹界の重鎮でもあった三島中洲により二松学舎は創建されました。明治維新を去ること10年、国情なお騒然とし、西欧文化の摂取に汲々としている最中でもありました。 時にあたり時節を憂いた中洲は、東洋の文化を学ぶことこそわが国本来の姿を知り得ると主張。東洋学の確立と新時代を担う国家有為の人材の育成を目指したのです。

昭和3年、二松学舎専門学校を設置。昭和24年二松学舎大学に移行、文学部国文学科・中国文学科を設置。同41年には二松学舎大学大学院文学研究科が開設されています。平成3年には国際政治経済学部を新設。建学の精神に基づいて、真の国際人としての教養を備えた人材の育成に務めています。

平成9年、大学基準協会維持会員校に登録。平成14年10月10日、創立125周年を迎えました。長い歴史と伝統、そして新世紀へ向けた発展の礎には、創立者三島中洲の「育英」の志が脈々と流れているのです。

創立者と校名の由来

三島 中洲 (1830~1919)

創立者三島中洲写真画像
三島中洲(ちゅうしゅう)名は毅(き)、字は遠叔。天保元年、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれました。11歳から学問を志した中洲は、14歳で儒学者山田方谷の門に入り陽明学を学び、さらに斎藤拙堂のもとで見識を深め、昌平黌において佐藤一斎に学びました。30歳の時、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝靜とともに激動の幕末を経験。明治維新後には、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めました。明治10年10月10日、官を辞し、千代田区三番町(当時は麹町一番町)のこの地に、大学の前身である「漢学塾二松学舎」を創設。多くの子弟を育成し、漢学・東洋学の発展に尽力。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任しました。
郷土の偉人 漢学者 三島中洲物語
26分31秒

「二松學舍」校名の由来

二松學舍(にしょうがくしゃ)校名の由来画像
二松學舍(にしょうがくしゃ)の「二松」とは、読んで字のごとく二本の松のことです。「二本の松」とは「学問をする場所」の象徴で、中国は唐の時代の名文家・韓愈(かんゆ)の「二本の松を向かいあわせに植えて、日々その松の樹の下で書物を読んだ」(「藍田県丞庁壁記」)という故事によります。これは、漢学を学ぶ者にはよく知られており、本学の創立者三島中洲も自作の漢文「二松學舍對」にこの故事を引き、「余が庭にも二松あり(中略)学舎に命じて二松と曰ふ」とその名の由来を記しています。 二本の松は、校舎が新しくなっても中洲の精神とともに受け継がれ、平成16年に竣工した現在の九段キャンパスにも、1号館正面右側に植えられています。

学校法人 二松学舍 沿革へ