第II部

渡邉 義浩 氏

渡邉 義浩 氏大東文化大学文学部中国学科教授・二松學舍大学非常勤講師・三国志学会事務局長。専門は中国古代史。著書に『図解雑学 三国志』(ナツメ社、2000年)、『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院、2004年)、『三国志研究入門』(日外アソシエーツ、2007年)、『「三国志」の女性たち』(共著、山川出版社、2010年)など多数。映画『レッドクリフ』日本語版監修、ドラマ『三国志 Three Kingdoms』字幕監修。

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シンポジウム第 II 部の様子(一部)

英雄? 姦雄? ゆれる曹操像 これから話すのは一次的曹操像、つまり歴史上の曹操がどのような人であったかについてです。曹操は果たして英雄なのか、それとも姦雄なのかということです。

父祖の遺産

歴史書において、曹操による呂伯奢一家殺害事件は、どんどん曹操を悪く書いていくようになります。そして、小説『三国志演義』の毛宗崗本(『三国志演義』の完成版)において曹操は、諸葛亮の「智絶」、関羽の「義絶」に対して、「奸絶」(悪役のきわみ)と評されるに至ります。

曹操が悪とされる理由の一つは、宦官の養子の子であったことです。宦官とは、去勢された男子のことで、ハーレムがあるところにはどこにでもあった存在です(ムガール帝国・オスマン帝国など)。そして、宦官は政治に介入して悪さをします(日本の遣唐使の功績の一つとして、宦官を輸入しなかったことが挙げられることもあります)。

曹操は宦官であった曹騰の養子である曹嵩の子です。『三国志演義』の毛宗崗本は、曹操をその生まれによって卑しめています。しかし、実はそんなに卑しい出自でもありません。「四世三公」の袁紹には見劣りしますが、父の曹嵩は、三公(宰相職)の筆頭である太尉(最上級の軍事長官)に至り、祖父の曹騰も、桓帝擁立に功績があって、宦官でありながら天下の名士を皇帝に推挙し、広く交わりを結んでいました。

曹騰が面倒を見た人の後輩に橋玄という人がいました。この橋玄が無名だった曹操を初めて評価した人物です。さらに、橋玄は曹操に対し、まだ無名だから許劭を訪ねるとよい、と勧めました。許劭はこの当時、人物鑑定で有名だった人ですが、宦官の養子の子に好意的ではありませんでした。しかし、橋玄が三公を歴任していたので、その推薦で来た曹操を無視できませんでした。

治世の能臣、乱世の姦雄

そこで、許劭は曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価しました。これを聞いて曹操は笑います(『三国志』武帝紀の裴注に引く孫盛の『異同雑語』)。毛宗崗本はこのことについて、「姦雄と認められて笑うとは、本当の姦雄である」と、曹操がいかに悪い奴であるかを強調していますが、この批評は当たっていません。

当時は知識人(「名士」)の評価を受けないと、その仲間に入れませんでした。例えば、諸葛亮も「臥龍」と評されることによって「名士」の仲間に入れたわけです。曹操が笑ったのは、「乱世の姦雄」という「評価」を得て「名士」の仲間入りができたことを喜んだからです。

ここで言葉の美しさに注目しましょう。「治世の能臣、乱世の姦雄」という言葉は、「治世」と「能臣」がプラスの意味になり、「乱世」と「姦雄」がマイナスの意味になって、きれいな対句になっております。ところが、『後漢書』許劭伝には、「乱世の姦雄」ではなく、「乱世の英雄」と記しています。しかし、これでは「英雄」がプラスの意味になるので、対句が崩れてしまいます。だから、『後漢書』の記載は間違いといえましょう。

ともあれ、『後漢書』許劭伝と『三国志』武帝紀の裴注に、「英雄」と「姦雄」という2つの評価が見えることは確かです。この2つの評価をどう考えたらいいのでしょうか。これが今日のお話のテーマです。

「姦雄」の本当の意味

実は「姦雄」という言葉の方が曹操の魅力がよく分かります。そもそも新しい時代の価値観というものは、普通の人には分かるはずがないものであります。普通の人がすばらしいと思うものはニセモノです。先進的な価値観を理解できる者はごくわずかしかいません。

「官渡の戦い」(曹操が当時最大の有力者と見られていた袁紹を破って、名実共に中原の覇者となった戦い)は、曹操にとって天下分け目の戦いでしたが、その時でさえ、曹操の陣営から袁紹に内通していた連中がいっぱいいました。曹操に仕えていながら、曹操の真価が分からない連中がいっぱいいたということです。そんな状況ですから、曹操に会ったことのない普通の人から曹操が「英雄」と見られることはまずないわけです。「何だアイツ」「よく分からないぞ」「おっかないぞ」「やってること変なんじゃないか」と思うのが普通です。しかし一方で、曹操の勢力が圧倒的に無視できないことも事実でした。それこそが、「姦」であり、「雄」であるということなのです。

「姦」というのは手段です。普通の人には曹操のとっている手段は理解できないし、同意できません。しかし、力が圧倒的に強いことは否定できません。だから、「雄」なのです。

猛政への指向

一般人には分からない「姦」とは何なのでしょう。「ここがすごいぞ、曹操」という1つ目は「猛政」です。

曹操には理想とした人物がいました。先に述べた橋玄です。曹操は突如出てきた異端児ではありません。橋玄が当時の首相といえる職にあった時、末っ子が人質にとられ、犯人に立て籠もられたことがありました。首相の子供が人質にとられたのですから、司隷校尉(都知事に相当)や洛陽令(千代田区長に相当)も手が出せません。橋玄は末っ子もろとも犯人を殺させました。橋玄はその足で宮中に赴くと、人質事件があった際には、人質を解放するために財貨を用いることで悪事を広げさせることがないようにいたしましょう、と上奏しました。当時、都の洛陽では人質事件が頻発していましたが、橋玄の断固たるこの処置により、人質事件は途絶えたといいます。

このように非常に厳しい、徹底的な悪に対する態度を「猛政」といいます。一見、法家の考え方のようですが、これは儒教の考え方です。橋玄は儒教の経典の一つである『礼記』の専門家でした。

当時、後漢の統治はゆるんでいました。これは儒教の浸透のためです。例えば、この頃、死刑の下の刑は棒打ちであり、刑罰に相当の開きがありました。本来は、中間刑として肉刑(鼻をそいだり、足を切ったりする刑)があったのですが、儒教によって刑罰はゆるやかにすべきとされ、後漢の時代にはおこなわれていませんでした。

曹操はきちんとした法体系を作り、法律の基礎を作り直しました。橋玄の猛政を継承したのです。しかし、一般人から見れば、これはひどいということになります。

青州兵

曹操のすごいところの2つ目は、「青州兵」です。曹操は青州の黄巾軍(「黄巾の乱」を起こした新興宗教「太平道」の残党)を平定しようとしますが、敵は強くて圧倒的に負けてしまいます。しかし、いつの間にか青州黄巾を降伏させ、精兵30万を得て、曹操の軍事的基盤となる青州兵を組織しました。これが怪しいんです。

後に呂布が曹操と戦った時に、呂布は青州兵の集団を認識しています。普通は降伏した軍隊を一つにして置いておくことはしません。反乱防止のために各隊に分散して配置します。ところが、降伏後もそれと分かるような集団を維持していたということは、曹操との間に何らかの密約があったと思われます。

また、曹操が死ぬと、青州兵は勝手に故郷に帰っていってしまいました。一般に軍隊をぬけることは重大な罪です。それが許されたということは、青州兵と曹操との間で、集団はそのままでいい、信仰もそのままでいい、仕えるのは俺だけでいい、という密約があったのではないでしょうか。曹操は普通の人がやらないことをやって自らの軍事的基盤にしたのです。

屯田制

曹操のすごいところの3つ目は「屯田制」です。一般の屯田制は軍隊が耕すものですが、曹操の屯田制は一般の人が耕すものです。

後漢の当時は大土地所有者である豪族が増え、それにともない流民が増えました。何とかして平等な社会を作らなければならないと考えた時、どうしますか。一般的な考え方としては、富を独占している者を殺して富を分配しようとするでしょうが、それでは姦雄にはなれません。富を持っている者は力が強いので殺せないし、また政権が安定しなくなります。

曹操は大土地所有者の土地には手をつけず、戦乱で荒廃し放棄された土地を整備して流民を呼び寄せ、種籾を与え、耕牛を貸して、かれら自身に稼がせました。これは隋唐の「均田制」や日本の「班田収授法」につながるものです。

曹操の屯田制はなぜ成功したのでしょうか。黄巾は河南(黄河の南側)を荒らしたため、河南は荒れ放題でした。支配しても税金が取れません。そこで、普通の知恵しか持たない袁紹は、黄巾が荒らしていない河北(黄河の北側)を支配して強い力を持ちました。

曹操は敢えて荒れた河南に入っていき、青州兵を味方につけ、荒れた河南を整備し、流民を呼び寄せて土地を耕させました。ここが新しいところです。ものすごいところです。よって成功したのです。

文学の宣揚

曹操のすごいところの4つ目は、文学の宣揚です。これが私が曹操を最も高く評価する理由です。

400年続いた漢を滅ぼすことは、現在の我々が思うほど簡単なことではありませんでした。漢は儒教を国の宗教として掲げていました。漢では、孔子が『春秋』(春秋時代の魯の国の年代記)を著したのは、700年後に興る漢という国のために周の制度を書き残すためであったと考えられていたほどです。儒教に守られた漢を滅ぼすことは並大抵の悪ではできません。「奸絶」と毛宗崗から評された曹操にしかできないのです。

では、どうしたらいいでしょう。単に儒教をボコボコにたたくだけでは、ただのバカです。「奸絶」曹操は、儒教の価値を相対化するために文学を用いました。これは一般人では思いつかない恐るべきやり方です。

曹操自身も「短歌行」などの名作を残していますが、曹操の文学から始まる建安文学は、中国史上最初の本格的な文学活動でした。息子の曹丕と曹植も活躍して叙情をうたう文学へと発展しました。

ただし、曹操の文学は、文学性というようなものよりも、むしろ儒教に対する対抗的な価値としての意味を持ちます。曹操の時代、官僚になるためには儒教を身につけていなければなりませんでした。ところが、曹操は官僚登用制度の中に文学というジャンルを取り入れ、文学によって官僚を選びました。曹操は単に文学が好きで作品を作っていたわけではなく、官僚登用制度の価値基準として文学を掲げていったのです。

これにより、文学は興隆し、儒教は非常に打撃を受けました。そこで、儒教は、「革命」というものができる、天命が変わったら王朝が変わってもかまわない、と言い出しました。こうして400年続いた漢を滅ぼす基盤ができたのです。

新たな時代を創造した英雄

「赤壁の戦い」に敗れ、中国統一に成功しなかったことで、曹操の創造性が高く評価されないこともあります。『三国志演義』の記述は、その代表でしょう。しかし、名君の呼び声の高い唐の太宗李世民が布いた律令体制は、太宗が一から創造したものではなく、曹操の政策を発展させたものでした。唐に全盛期を迎える五言詩もまた、文化として高く評価することを創めた者は、曹操なのです。毛沢東が中華人民共和国を建国した際、曹操の再評価を命じたように、三国時代だけではなく、長い歴史の中に曹操を位置づけた時、曹操の「姦」は「英」であることが分かります。当時の人には「姦」にしか見えないんです。新たなる時代を創造した曹操は、三国時代を超えて高く評価されるべき英雄なのです。

第 II 部に参加した方の感想

  • ・曹操の偉大さとは具体的にどのような点にあるか、渡邉先生ならきっと簡かつ明に説明して下さると思って来ましたが、期待以上でした!
  • ・濃い内容でわくわくしながら話を聞いていました。史実を知る事により曹操という人間を知る事ができ、もっと詳しく知りたいと思いました。
  • ・歴史全体から見れば、曹操が悪人ではなく、軍事・政治・文学に精通した偉大な人物であることが改めて分かった。
  • ・文学家としての曹操、昔の中国は詩を作る才能が必要である事に驚きました。また、鹿鳴館についての豆知識など面白かった。日本でも知識があるだけじゃなく文章力や言語力のある人が上に立ってほしい。
  • ・学問的なお話で、授業のようでした。「治世の能臣、乱世の姦雄」という言葉はよく聞きますが、いまいちどういう意味かつかみかねていたので、先生のお話を聞いて理解することができました。
  • ・堅い話だという前置きがありましたが、そんなことは全くなかったです。わかりやすく、面白い例え話がたくさんあり、大変興味深く聞かせていただきました。
  • ・曹操の人となりのみならず、それとの対比で、トルコの制度や日本の制度などの話に及んだり、また秦や唐の話に及んでいたので、地域的・時間的に多角的な話だったので、大変興味深かったです。渡邉先生の知識を全てまとめた本がよみたいです!
  • ・先進性をもつものの価値はその時代の人間にはわからない、時代の評価はあとからなされるものだと考えれば、曹操に与えられた「姦雄」という評価が今の私達から見て必ずしも悪と同義ではないことの理由がわかった気がします。
  • ・「文学を重視すると儒教が弱まる」「当時の人から見れば姦雄、後世だと英雄」など知らない事、先生の考えなどが聞けて勉強になりました。
  • ・曹操、つねづね私も英雄と思っておりました。勧善懲悪物の悪役ではなく、史実にもとづいた姿が知られるようになってほしいものです。
  • ・政治家としての手腕の素晴らしさがうかがえました。一般人が考えないような政策を行っていると聞いて、やはり悪人だとはいえないと感じました。悪人とは言えないと思うが、善人だとも言えないかと感じました。
  • ・自分でいろいろ調べて知った曹操とは違った一面が見れた。特に橋玄のお話が興味深かったです。
  • ・橋玄の項にもう少し踏み込んでもらいたかった気がする。
  • ・先生の『三国政権の構造と「名士」』を読んだことがあるが、その内容がベースだと感じました。
  • ・近著『儒教と中国』を読んでいたのでよく理解できました。
  • ・また機会があればお話をうかがいたいと思うほど面白かったです。
  • ・テンポが速くてとても面白かったです。資料を読み返したいと思います。
  • ・主観を交えての解説だったので、面白く話がきけました。何よりも話が上手でした。
  • ・興味ぶかい資料を頂き、たのしい解説でしたが、時間が足りなかったのが残念です。1p目からびっしり解説が聞きたかったです。
  • ・行間を語っていただいた内容で、三国志に興味をもちました。