昨年10月に二松學舍大学九段キャンパスで行なわれ、200名以上の参加者を集めた文学部シンポジウム「非常之人〜三国志の覇者・曹操の人物像」。各界から講師をお招きし、曹操の人物像について多角的にアプローチしました。
本レポートページでは、シンポジウム当日の様子を一部映像や写真と共に紹介します。
また、参加者によるシンポジウムへの感想等も合わせてお知らせします。
曹操【そう・そう】 155〜220
字は孟徳。沛国譙県(安徽省亳州市)の人。兵法に精通した文武両全の英雄で、後漢末の群雄の中では段違いのスケールを持つ存在。時の皇帝である献帝を擁して天下に号令する大義名分を得、当時最大の有力者と見られていた袁紹を「官渡の戦い」で破って名実共に中原の覇者となった。「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍に敗れるが、魏公から魏王へと位を進め、魏の基礎を築く。息子の曹丕が魏の初代皇帝となる。
西暦 | 年齢 | 事績・主要事件 |
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155年 | 1 | 誕生。 |
184年 | 30 | 「黄巾の乱」発生、鎮圧に加わる。 |
189年 | 35 | 董卓が実権掌握、都を去る。途上、呂伯奢一家殺害。 |
190年 | 36 | 反董卓連合挙兵。 |
192年 | 38 | 青州兵を獲得。 |
193年 | 39 | 徐州を攻撃し、住民を虐殺。 |
196年 | 42 | 献帝を許に迎える。屯田制施行。 |
198年 | 44 | 呂布を滅ぼす。 |
200年 | 46 | 「官渡の戦い」で袁紹を破る。 |
207年 | 53 | 袁氏一族を滅ぼし、河北を平定。 |
208年 | 54 | 荊州の劉jが降伏。「赤壁の戦い」で孫権・劉備に敗れる。 |
210年 | 56 | 銅雀台をつくる。 |
211年 | 57 | 馬超を破り、関中を平定。 |
212年 | 58 | 荀ケ死す。「濡須口の戦い」。 |
213年 | 59 | 魏公に位を進める。 |
215年 | 61 | 五斗米道の張魯が降伏し、漢中を獲得。 |
216年 | 62 | 魏王に位を進める。 |
219年 | 65 | 劉備に破れ、漢中を奪われる。 |
220年 | 66 | 死去。 |
(1) 軍略家 | (2) 政治家 | (3) 文学者 |
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中原(当時の中国の中心部)の覇権をかけて袁紹と戦った「官渡の戦い」において敵の兵糧を急襲して逆転勝利を収めるなど、ここぞという時に卓越した采配を見せる。蜀の諸葛孔明も、いわゆる「天下三分の計」を説く中で、中原を制圧した曹操の軍略を高く評価している。 また、曹操は兵法書『孫子』に注釈をつけている。曹操の注は机上の空論ではなく、自らの実戦経験に基づくため非常に説得力がある。 |
屯田制……持ち主のなくなった農地を民に与え、集団で農耕に従事させて税を納めさせる制度。曹操の税制の中で注目すべきは、日本史にも出てくる「租」(収穫の一部を納める)・「庸」(労役に出ない代わりに絹を納める)・「調」(その土地で産出した絹や綿などを納める)のうち、すでにあった「租」のほかに「調」を実施したこと。 「文学」の宣揚……これまで後漢帝国を支えていた文化的価値は儒教だったが、曹操は自らの権力の確立のために儒教に代わる文化的価値として、文学を提唱。文学によって人材を評価し、文学によって官職を与えるという発想。 |
「文学」を宣揚した曹操は、文人たちと文学サロンを形成し、民間の形式であるために当時軽んじられていた五言詩(五字を一句とする詩の形式)を主とする「建安文学」を打ち立てた。曹操自身、すぐれた作品を残している。曹操がとりあげたことによって、五言詩は魏晋南北朝時代(220〜589)を通じて詩の主流となり、それが唐代(618〜907)における詩の爆発的隆盛にもつながる。曹操の延長上に李白(701〜762)・杜甫(712〜770)があるといっていい。 |
一方で、曹操といえば、「三国志」の悪役として知られてきた。それは小説『三国志演義』を代表とする中国の民間で培われた「三国志」物語が育んできた曹操のイメージ。
例:呂伯奢一家殺害事件
董卓暗殺に失敗し、お尋ね者となった曹操は、途中で出会った陳宮に助けられ、とりあえず曹操の父親の義兄弟である呂伯奢の家に難を避けることにした。二人を歓迎した呂伯奢は、酒を買いに出かけた。
二人が待っていると、刀をとぐ音が聞こえてきた。曹操は自分たちを殺そうとしていると考え、呂伯奢の家人計8人を殺した。しかし、よく見れば、曹操らをもてなすために用意された豚が縛られて転がっている。勘違いで8人も殺してしまったのである。
曹操らは逃げたが、前から呂伯奢がやって来た。曹操は呂伯奢をも斬り殺した。呂伯奢が家に戻り、家の者が殺されているのを見たら、面倒なことになるからである。陳宮が曹操を非難すると、曹操は「わしが天下の人に背くとも、天下の人にはわしに背かせん」と言った。
民間の「三国志」物語では、劉備やその部下である関羽・張飛・孔明らを善玉として活躍させる一方、曹操は彼らの前に立ちはだかる冷酷で残忍な悪玉として描かれる。そのような曹操像は現代にも受け継がれている。
しかし、父親を殺された恨みから大虐殺をおこなうなど、歴史上の曹操には、後世に悪玉とされても仕方がない要因が存在することは事実。
一次的曹操像
「3つの顔」に代表されるように、歴史上の曹操自身が持つ多面的な人物像。もちろん、大虐殺の実行などのダーティーな面も含む。
二次的曹操像
後世に附与された多面的な曹操像。中国はもちろん、日本における曹操像も含む。
(例1) 『三国志演義』における悪役としての曹操像
(例2) 小説・漫画・ドラマ・映画・ゲームなど二次創作の中の曹操像
(例3) 現代中国における曹操像
(例4) 現代日本における曹操像
各講師にはそれぞれのテーマの中で一次的曹操像や二次的曹操像について触れていただき、「第IV部 総合討論」の中でそれらをふまえて、一次的曹操像と二次的曹操像の関係、歴史上の人物が各時代・各国(各地域)において受容されていく過程で人物像が変化していくことをどのように理解すべきかなどを考えていくと共に、曹操や「三国志」を受け入れた日本人の中国に対する意識についても考察したい。