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第2回 ブルガリアの歴史と文化  国際政治経済学部 教授 菅原 淳子

筆者はバルカンにおける近代国家形成と国際関係をテーマに研究をしており、バルカン諸国の中でも主にブルガリアを研究対象としている。 2005年度から4年間は従来からのテーマからやや離れて、神戸大学(当時)月村教授を研究責任者とする「バルカン地域を巡る国際関係の政治・経済的変動に関する研究」という科研費プロジェクトの研究分担者として、ブルガリアの現状を考察してきた。そこでの私のテーマは「バルカンにおける地域協力の可能性」で、2005年、2007年にはプロジェクトのメンバーと共にブルガリア、マケドニア、ギリシアで現地調査を行った。調査の概要についてはまたの機会に譲り、今回は日本では馴染みの薄いブルガリアの歴史と文化について紹介したい。

ジャミヤ シナゴーグ

 2005年の調査時のことである。ブルガリアで合流した隣国セルビア、ベオグラードの日本大使館専門調査員だった某君は、首都ソフィアのホテルの場所を見て当惑したように言った。「本省からの指示では、絶対泊まってはいけないとされる場所にあります」。それもそのはずである。町の中心部にあるホテルはイスラーム教の礼拝所であるジャミヤ(英語ではモスク、写真①)とユダヤ教の会堂であるシナゴーグ(写真②)に隣接しており、どちらからも20メートルも離れていない。しかしソフィアでは、某君が心配するイスラーム教徒とユダヤ教徒の間での衝突などは耳にしたことはない。

 今日のブルガリアの人口は約750万人で、約1割をトルコ人が占める。トルコ人の存在は500年に及ぶオスマン帝国支配の名残である。ブルガリア人の大半はキリスト教徒(ブルガリア正教)であり、イスラーム教徒としてはトルコ人やロマ(ジプシー)のほかポマクと呼ばれるブルガリア人イスラーム教徒がいる。一方現在ブルガリアに居住しているユダヤ人は少数である。第二次世界大戦においてブルガリアはドイツの同盟国であったが、同盟国で唯一、国内のユダヤ人を強制収用所に送還しなかったことで知られている。戦争中ユダヤ人のほとんどはパレスティナへ逃れた。

ローマ時代の劇場

 ブルガリアの歴史は古く、古代バルカン半島にはイリリア人、トラキア人が居住していたが、アウグストゥスの治世(BC27-AD14)にローマ帝国の支配下に入った。半島全体を支配したローマ人は支配の拠点としてセルディカ(ソフィア)、フィリポポリス(プロヴディフ)、シンギドゥナム(ベオグラード)などを建設し、106年にはドナウ川以北、現在のルーマニアも直接支配するにいたった。(写真③はプロヴディフにあるローマ時代の劇場)
 395年、広大な帝国を支配するためにローマ帝国は行政上東西に分割されることになり、ここにバルカンの歴史上非常に重要な意味を持つ境界線が引かれた。西ローマ帝国と東ローマ帝国を分かつこの境界線は、アドリア海からドリナ川に沿ってドナウ川まで引かれ、今日のセルビア、マケドニア、ギリシア、ブルガリア、ルーマニアなどは東ローマ帝国に組み込まれたのである。この後東ローマ帝国は、コンスタンティノープル(現イスタンブル)を首都とするビザンツ帝国として発展し、西ローマ帝国が滅びた後も、1453年にオスマン帝国の攻撃で滅亡するまで約1000年にわたって存続した。

 ローマ帝国の分割と同時にローマ教会もローマを中心とする西ローマ教会と、コンスタンティノープルを中心とする東ローマ教会に分かれた。次第に教義や典礼が異なるようになり、東西ローマ教会は1054年に完全に分裂し、その後西ローマ教会(今日のカトリック)はローマを総本山として発展したが、東ローマ教会(東方正教会)は国ごとに首長(総主教)を戴くことになった。

 ビザンツ帝国に組み込まれたバルカン半島には、6世紀から7世紀にかけてドナウ川をわたってスラヴ人が侵入し定住した。その過程で先住の民族は融合されたと考えられている。このスラヴ人とその後侵入してきたアジア系のブルガール人が協力してビザンツ帝国と戦い、681年に第1次ブルガリア帝国を建設した。ブルガリアはバルカンに最初に誕生したスラヴ人の国家であり、ブルガリア人とは数の上では少数であったブルガール人がスラヴ人と融合して誕生した民族である。

 ブルガリア帝国は864年にキリスト教を受け入れて東ローマ教会の管轄下に入り、スラヴ文化の中心地となった。古代ブルガリア語(教会スラヴ語)はスラヴ人の正教会の言語となり、聖書をギリシア語からスラヴ語に翻訳するために考え出されたグラゴル文字はその後修正されてキリル文字となり、ブルガリアのみならずセルビア、ルーマニア、ロシアで採り入れられた。現在のマケドニア共和国西部のオフリドは、10世紀末のブルガリア帝国の都で総主教座も置かれ、当時は365の教会を有する宗教的、文化的な中心であった。写真④はオフリド湖畔に立つ聖ヨヴァン・カネヨ教会(13世紀)。湖の対岸はアルバニアである。

聖ヨヴァン・カネヨ教会

 ブルガリア帝国は11世紀初頭に再びビザンツ帝国に征服されるがその後再建され、13世紀には領土を拡大し、当時のヨーロッパにおいて高い水準の文化を誇っていた。しかしオスマン朝トルコがバルカン半島に進出してきた14世紀後半には、封建諸侯が群雄割拠し、分裂状態にあった。

 1393年、第2次ブルガリア帝国の都タルノヴォが陥落し、この後500年にわたってブルガリアはオスマン帝国の支配下に置かれることになった。

 15世紀半ばまでには、ルーマニアを含めてバルカン全土がオスマン帝国の領土となった。オスマン帝国はイスラーム帝国であったが、キリスト教徒とユダヤ教徒に対しては啓典の民として、人頭税と引き換えに信仰の自由を認めた。このためブルガリア人をはじめバルカンのキリスト教徒は、教会の新たな建設の禁止などの制約が課せられたものの、信仰を維持し続けることができたのである。一方イスラームへの改宗はアルバニア、ボスニアのほかブルガリア南部の山間で限定的に行われた。

 15世紀以降、小アジアからバルカン半島へのトルコ人の植民が始まり、都市部にはトルコ人の行政官、兵士や職人のほか商業に携わるギリシア人、アルメニア人、ユダヤ人が居住するようになった。とりわけブルガリアはイスタンブルから近く、トルコ人の数は他の地域に比べると多かった。また信仰を保証されていたことから、ヨーロッパ、主としてイベリア半島から多数のユダヤ人がオスマン帝国内に逃れて来たのであった。オスマン帝国では、19世紀に入ってバルカンのキリスト教徒の間で民族意識が覚醒し、民族として独立を模索するようになるまで、異なる宗教間での相克はほとんど見られなかった。

 1866年の統計によるとソフィアの人口は6,670人である。(ただしオスマン時代の統計には女性や子供は含まれていない。)オスマン帝国では民族性は問われず、宗教が問題とされたため、ソフィアの人口の内訳はキリスト教徒2,544人(37.6%)、イスラーム教徒2,618人(38.7%)、ユダヤ教徒1,335人(19.7%)となっている。この数字から、今日のソフィアの中心部にジャミヤやシナゴーグが存在する理由が理解できるだろう。1870年当時のソフィアには約30のジャミヤがあったと記録されている。

 イスラームの支配の中で、バルカン諸民族の文化的拠点であり精神的な拠り所であったのが修道院であり、19世紀に入ってブルガリア人の民族意識の覚醒に重要な役割を果たしたのも修道院、修道士であった。リラ修道院(写真⑤)も重要な修道院の一つである。リラ修道院の歴史は10世紀に遡るが、現在の形となったのは14世紀である。1833年の大火でほとんどが消失したがその後再建された。(1983年にユネスコの世界文化遺産)

リラ修道院

ブルガリアは1876年の民衆蜂起、1877年から78年の露土戦争を経て、1878年のベルリン会議でオスマン帝国内の自治を獲得した。それに伴いブルガリア内のトルコ人の多くが、イスタンブルを目指してブルガリアから逃れた。ブルガリアの完全な独立は1908年である。

 写真⑥はソフィア中心にあるアレクサンドル・ネフスキー教会で、露土戦争で戦死したロシア軍兵士を慰霊する目的で建立され、1912年に完成した。今日のバルカン半島で最大の教会と言われている。

アレクサンドル・ネフスキー教会

 独立後、ブルガリアに残ったトルコ人は少数民族となったが、両大戦間期までは少数民族としての権利は概して保証されてきた。しかし第二次世界大戦後の社会主義体制の中で、彼らの権利は次第に制限されるようになり、1984年からは国民統合を目指す共産党によってトルコ人に対する同化政策が強行された。トルコ人の名前をブルガリア風に改名させるなどの政策は、国際的にも厳しく非難された。ブルガリア政府が同化政策の誤りを認めたのは1989年の民主化の中でであった。

 2007年1月にEU加盟を果たしたブルガリア。今日のブルガリアでは民族や宗教をめぐる対立はほとんど存在しない。異なる民族、異なる宗教との共存の長い歴史は、ブルガリアにとって貴重な財産となっている。

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