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第5回 曹操(二)

曹操
曹操【そう・そう】155~220
字は孟徳。沛国譙県(安徽省亳州市)の人。兵法に精通した文武両全の英雄で、後漢末の群雄の中では段違いのスケールを持つ存在。時の皇帝である献帝を擁して天下に号令する大義名分を得、当時最大の有力者と見られていた袁紹を「官渡の戦い」で破って名実共に中原の覇者となった。「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍に敗れるが、魏公から魏王へと位を進め、魏の基礎を築く。息子の曹丕が魏の初代皇帝となる。

 今年の4月に筆者はBSジャパン開局10周年記念番組「三国志ミステリー 覇王・曹操の墓は語る!」のロケに同行して、俳優の北村一輝氏と共に曹操ゆかりの地を訪ねてきました。番組タイトルにもあるように、最大の目的は海外メディアに初めて許された曹操の墓の撮影です。今回はロケで訪れた曹操の墓を中心に、その他の曹操ゆかりの地にも目を配りながら、番組で提示された曹操という人物のある一面について見ていきます。

曹操の墓

曹操墓

 昨年12月27日、中国河南省文物局は、同省安陽市安陽県西高穴村で調査を進めていた後漢時代の墓が、魏の基礎を築いた曹操のものであると発表しました。曹操の墓と断定した根拠としては、出土した遺骨が60歳前後の男性であったこと(曹操は66歳で死去)、曹操を表す「魏武王」と刻まれた石牌や枕などが見つかったことなどを挙げています。しかし、この発表の直後から真偽をめぐる論争が巻き起こりました。この論争の決着はついていませんが、墓が盗掘によってひどく荒らされていたため資料が少なく、論争の決着をつけられないというのが正直なところでしょう。今後の綿密かつ慎重な調査が待たれます。

 この墓は、墓道・前室と後室の2つの墓室・4つの側室からなり、全体の面積は約740平方メートル、全長は60メートル近くにおよび、レンガを積んでアーチ状にした天井を持っています。後漢の王の墓に相当する規模といってよく、大きさからいえば魏王に封じられた曹操の墓であってもおかしくはありません。

地図

 今回のロケでは残念ながら墓の内部に立ち入ることは許されず、発見された出土品も見せてもらえませんでした。ただ、墓の外形からいえることは、曹操が自らの墓の造営について下した「盛り土をしたり木を植えたりするな」(『三国志』武帝紀)という令に合致しているということです。このことは曹操よりも上の代にあたる一族の墓と比べてみるといかに特徴的なことであるかが分かります。

曹操宗族墓

曹操宗族墓

 曹操の故郷である沛国譙県は現在の安徽省亳州市です。曹操宗族墓は市内にあり、その一帯は曹操公園として整備されています。公園内に点在する曹氏の墓は、いずれも盛り土がしてあって同じような形状をしています。また、規模も小さくて安陽で見つかった曹操のものとされる墓とは随分様子が違います。これらの墓は全て曹操よりも上の世代の一族の墓です。

 曹操公園から少し離れたところに曹操の祖父にあたる曹騰の墓があり、こちらは墓の内部も公開されています。やはり盛り土がしてある点は他の曹氏の墓と共通します。内部は曹操のものとされる墓と同様にいくつかの部屋に分かれていますが、前室・中室・後室のほか、南北の耳室や東西の偏室などもあって、曹操墓よりも複雑な構造をしています。

曹騰墓

 亳州の人たちは曹操の墓が故郷である亳州にあると信じています。だから、形状や規模があまりにも違うことを根拠に、亳州の人たちが安陽の墓を曹操のものではないと主張するのも分からないではありません。しかし、上で見た曹操の命令からも分かるように、形が違って当然なのです。

 また、曹操は墓の造営場所についてもはっきり指示を出しています。それは「西門豹祠の西の平地」(『三国志』武帝紀)です。西門豹祠とは、戦国時代の魏の人、西門豹をまつった祠のことです。そして、その所在地は今の河南省安陽市にあたります。現在では祠そのものはありませんが、清代に建てられた石碑が残っています。このことも曹操の墓が亳州にある可能性を否定しています。

西門豹と曹操

西門豹祠の石碑

 それでは、その西門豹とはどのような人物だったのでしょうか。西門豹は、曹操が生きた時代よりも600年ほど前に安陽を含む一帯を治めていた役人です。歴史書の『史記』には西門豹について、次のようなエピソードが載っています。

 西門豹が着任してみると、この地には洪水を避けるために住民の中から美しい娘を選んで河の神に妻として捧げる風習があることが分かりました。要するに娘を人身御供として河に沈めるわけです。しかも、この神事をとりしきる土地の役人や巫女らが、神事のためと称して住民からしぼりとった税金を山分けしているとのことでした。西門豹は神事の日に出かけていき、人身御供の娘を見て、「この娘は美しくない。さらに美しい娘を見つけるまで河の神に待ってくれるよう頼んでくれ」と、巫女を神への使者として河に投げ込ませました。もちろん、巫女は河に沈んで浮いてきません。西門豹は、「何で戻って来ないのだ」とさらに巫女の弟子や役人を次々と河に投げ込ませました。人々は大いに驚き恐れ、それ以来この風習はなくなったということです。

曹操はなぜ西門豹をまつった祠の近くを自らの墓の場所として選んだのでしょうか。曹操は216年に後漢の献帝から魏王に封じられています。安陽は与えられた魏の地に含まれていますから、王がそこに葬られるのは不自然でないとしても、わざわざ西門豹祠の近くを選んだのはなぜでしょうか。

 番組では、若き日の曹操の行ないに注目しました。曹操は黄巾賊討伐の功により、済南国の相(行政長官)に任命されます。任地では前漢の時代に功績のあった劉章という人をまつることが盛んでした。しかし、この風習によって民が貧困に陥っていたため、曹操はこの風習を禁じ、劉章の祠を壊させました。

この曹操の行動は西門豹の行動と似ています。この点から、番組では「三国志」の覇者ともいえる曹操が墓を造営するにあたって、意外にも地方の一役人をリスペクトしていたという見解を提示しました。前述のように、現在、西門豹祠のあったところには清代の石碑が残るだけですが、付近の農民たちは今でも西門豹をまつり続けています。より西門豹に近い時代を生きていた曹操が、西門豹に対して敬慕の念を持っていたとしてもおかしくはないでしょう。もちろん、この見解を客観的に裏づけることはできません。ただ、前回述べたように、昔から曹操に対する評価は大きな振幅で揺れてきました。それが曹操の多面性に起因するであろうことも指摘しました。番組が提示した曹操像も、その揺れの幅の中におさまる一つの見解ということはいえましょう。

本学では来たる10月31日(日)13:00から九段キャンパス中洲記念講堂において文学部シンポジウム2010「非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像」を開催します。多彩なゲストをお招きし、本コラムでも話題にした曹操の多面的な人物像について、時代や国を往き来しながら多角的にアプローチしていきます。皆さまのお越しをお待ちしております。

http://www.nishogakusha-u.ac.jp/sangokushi/

※文学部シンポジウム2010「非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像」は終了いたしました。多くの方にご来場いただきありがとうございました。

(文学部中国文学科 伊藤晋太郎)

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