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第4回 曹操(一)

曹操
曹操【そう・そう】155~220
字は孟徳。沛国譙県(安徽省亳州市)の人。兵法に精通した文武両全の英雄で、後漢末の群雄の中では段違いのスケールを持つ存在。時の皇帝である献帝を擁して天下に号令する大義名分を得、当時最大の有力者と見られていた袁紹を「官渡の戦い」で破って名実共に中原の覇者となった。「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍に敗れるが、魏公から魏王へと位を進め、魏の基礎を築く。息子の曹丕が魏の初代皇帝となる。

 曹操といえば、「三国志」の悪役として知られてきました。それは小説『三国志演義』を代表とする中国の民間で培われた「三国志」物語が育んできた曹操のイメージです。民間の「三国志」物語では、「尊劉貶曹」(劉備を尊び曹操を貶める)が基本思想であり、劉備やその部下である関羽・張飛・孔明らを善玉として活躍させる一方、曹操は彼らの前に立ちはだかる冷酷で残忍な悪玉として描かれます。そのような曹操像は、現代にも受け継がれているといっていいでしょう。近年公開されたジョン・ウー監督の映画『レッドクリフ』の曹操も残酷な手段をとることをいとわない姦雄でした。

最近の曹操人気

 しかし、一方で最近はこれとは違う流れが勢いを増しています。曹操を悪玉とすることを見直す動きと、それがもたらした曹操人気の高まりです。悪玉としての曹操像を見直す動きそのものは決して新しい傾向とはいえません。例えば、中国では毛沢東が自らの政治的立場や主張に合わせて曹操を肯定的に評価したことがありますし、日本ではそれ以前に吉川英治が小説『三国志』の中で熱情をもって曹操を描き、『三国志演義』とは一味違う、単なる悪役ではない一個の血の通った人間としての曹操像を打ち立てています。

 このように曹操像を見直す動きは以前からあったのですが、近年は「三国志」ファンの歴史志向の高まりから、『三国志演義』の世界観を軽視、ないしは否定して、正史『三国志』に記された後漢・三国時代の人物の実像を重視する傾向が強まり、それにともなって曹操や魏の人物を高く評価するファンが増えています。そして最近の曹操人気を決定づけたのは王欣太・李學仁両氏による漫画『蒼天航路』です。『三国志演義』における諸葛孔明のような位置づけで曹操を描いたこの作品は、日本人の曹操観を大きく転換させたといっていいでしょう。『蒼天航路』から「三国志」の世界に入った人たちにとって、もはや曹操=悪玉という認識はありません。本学の学生の中にも『蒼天航路』の影響で曹操や魏のファンになった者が多く、中には授業の後に、「先生は曹操が悪役とされてきたとおっしゃいましたが、僕には全く理解できません」と熱弁をふるった学生もいました。

 曹操に対する評価がこれだけ大きな振幅で揺れ動く要因の一つとして、曹操という人物のスケールの大きさと多面性が挙げられましょう。正史『三国志』の著者である陳寿は、曹操を「非常之人」(並外れてすぐれた人物)と評しています。この時代の他の人物に比して、曹操は群を抜いた存在でした。それでは、どのようにスケールが大きく、また多面的なのでしょうか。

軍略家としての曹操

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 曹操には大きく分けて3つの顔があります。第一に挙げられるのは軍略家としての顔です。曹操は、中原(当時の中国の中心部)の覇権をかけて袁紹と戦った「官渡の戦い」において敵の兵糧を急襲して逆転勝利を収めるなど、ここぞという時に卓越した采配を見せています。蜀の諸葛孔明からも中原を制圧したその軍略を高く評価されています。

 また、曹操は名高い兵法書である『孫子』に注釈をつけています。曹操の注は机上の空論ではなく、自らの豊富な実戦経験に基づいているため、非常に説得力があります。それゆえ、現在に至るまで『孫子』は曹操の解釈によって読まれています。曹操は自らの経験を理論化できるほどすぐれた軍略家だったといえます。

政治家としての曹操

 次に政治家としての曹操について見ていきましょう。曹操の政治的功績として代表的なのは、新しい「屯田制」の施行と「文学」の宣揚です。

 従来の屯田制は、辺境地帯を守備する軍隊に耕作させる「軍屯」というものでした。曹操の屯田制の新しいところは、内地の持ち主のいなくなった土地を農民に与え、集団で農耕に従事させて税を納めさせる「民屯」を実施したことです。

 文学の宣揚は、「名士」と呼ばれる階層に対抗して自己の君主権力を確立するために行なわれました。これまで後漢帝国を支えていた文化的価値は儒教であり、「名士」も儒教を価値基準としていました。曹操は儒教の価値を相対的に下げるために、これに代わるものとして文学を提唱したのです。文学によって人材を評価し、文学によって官職を与えるという発想です。

このように革新的な政策によって功績を立てる一方で、父親を殺された恨みから徐州で大虐殺を行なったことも事実です。これによって曹操は一時期、人望を失うことになりました。また、時の皇帝であった献帝を擁したことは、曹操サイドから見れば、天下に号令する実権を握るための画期的な戦略といえますが、曹操に敵対する勢力から見れば、曹操は皇帝をないがしろにする逆賊としか映りません。例えば、呉の周瑜は、「曹操は漢の丞相(宰相)であることをたてにしているが、実際のところは漢にとっての賊である」と決めつけています。これらが後世に悪役としての曹操像が作り上げられる要因となったことは想像に難くないでしょう。曹操が悪役とされたのもゆえなきことではないのです。

文学者としての曹操

 文学を宣揚した曹操ですが、彼自身も文学者としての顔を持っています。曹操は文人たちと文学サロンを形成し、当時軽んじられていた民間の形式である五言詩(五字を一句とする詩の形式)を主とする「建安文学」を打ち立てました。曹操自身も「苦寒行」「短歌行」などのすぐれた作品を残しています。曹操がとりあげたことによって、五言詩はこれより後の魏晋南北朝時代を通じて詩の主流となり、それが唐代における詩の爆発的隆盛にもつながりました。曹操の延長上に李白や杜甫があるといっていいでしょう。曹操は中国文学史上においても重要人物です。

墓の発見によって再び集まる注目

 「三国志」の人物を見渡しても、これだけ多彩な顔を持ち、しかもそれぞれにおいて一流の人物はいません。陳寿が「非常之人」と評するのももっともです。また、曹操も一人の人間です。過ちを犯すこともあれば、ダーティーな面も持っています。これまで曹操に対する評価が大きな振幅で揺れてきたのも、人間として幅があることの証明でしょう。最近の曹操人気は、この多面性のうち、才能や功績といったプラス面が強調された結果といえます。

 ところで、昨年末に河南省安陽市で曹操の墓が発見されたというニュースが流れたことは、まだ記憶に新しいのではないでしょうか。この墓が本当に曹操のものなのかということについては、今もなお議論が続いていますが、少なくともこのニュースによって再び「三国志」や曹操に世間の注目が集まったことは確かであり、研究者として喜ばしいことです。

 そして筆者は今年の4月にこの曹操のものとされる墓に行ってきました。BSジャパン開局10周年記念番組「三国志ミステリー 覇王・曹操の墓は語る!」というテレビ番組に解説者として出演するためです。番組では曹操の墓だけではなく、その他の曹操ゆかりの地も取材しました。次回は曹操の墓を中心に、それらゆかりの地の紹介もまじえながら、もう少し曹操の人物像について考えてみようと思います。

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