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第3回 張遼

張遼
張遼【ちょう・りょう】165~221
字は文遠。雁門郡馬邑県(山西省朔州市)の人。丁原・何進・董卓・呂布と主を変え、最終的に曹操に仕えることになる武将。各地を転戦するが、特に合肥(安徽省合肥市)での孫権軍との戦いにおける活躍が有名。小説『三国志演義』では、関羽との親しい関係が強調して描かれる。

 魏の武将の中で比較的人気の高いのが張遼です。第1回の趙雲、第2回の周瑜には人気を集める要素として「イケメン」というキーワードが挙げられましたが、張遼の場合はイケメンという言葉とは縁がないようです。むしろ、いぶし銀のシブさに魅力があるというべきでしょうか。

 彼が支持を集めるのは、職業的軍人ともいうべき冷静沈着さと、戦闘の際に見せる豪胆さとをあわせ持った武将としての安定感にあるといえそうです。丁原・何進・董卓・呂布と主を変え、最終的に曹操に仕えましたが、与えられた場所で着実に仕事をこなしている印象があります。野球に例えれば、複数球団を転々としながらも確実に先発ローテーションに入って毎年10勝以上する投手といったところでしょうか。

合肥の戦い

地図

 張遼が名をあげた「合肥の戦い」について見ていきながら、彼の魅力を確認しましょう。

 215年、曹操が漢中に出征した隙をついて、孫権は曹操勢力下の合肥(安徽省合肥市)を大軍で包囲しました。合肥を守っていたのは張遼・李典・楽進の3名です。曹操が与えた指示はこうでした。「張遼・李典は城を出て戦え。楽進は城を守れ」。諸将はこの作戦に懐疑的でしたが、張遼は、「殿(曹操)は遠征中だから、救援のために到着した頃には、孫権軍は我々を撃ち破っているだろう。そこで孫権軍の包囲が完成しないうちに撃って出て、敵の勢いをそぎ、みなの心を落ち着ければ、城を守ることができるとおっしゃっているのだ。勝敗の分かれ目は、この一戦にある。諸君、何をためらうか」と叱咤しました。平素、張遼と仲の悪かった李典も納得して戦う覚悟を決めます。ここに張遼の冷静な状況分析を見て取ることができます。

翌日、張遼はわずかな兵で孫権の陣営に突っ込んでいきます。あれよあれよという間に孫権の目と鼻の先まで迫りました。孫権はあわてて丘の上に逃げます。張遼はふもとから孫権に下りてこいと叫びますが、孫権が挑戦に乗るはずもありません。その時、孫権は張遼の兵が少ないことに気づき、味方に張遼を包囲するよう命令しました。しかし、張遼の武勇の前に囲みは破れて、張遼に配下の兵ともども脱出されてしまいます。さらに張遼はまだ取り残されていた兵を救いに馳せ戻り、それらの兵も脱出させます。孫権軍はなすところなく、張遼のために道をあけるばかりでした。張遼はこの働きによって孫権軍の士気を萎えさせる一方、味方を安心させて諸将から信服されたのでした。結局、孫権軍は合肥を落とせずに退却しました。張遼はこれを追撃し、もう少しで孫権を捕らえるところまで追いつめています。わずかな兵で孫権軍に突撃するところや、敵の包囲から味方を救い出すところに、張遼の豪胆さと勇猛さが存分に現れているといえましょう。

「遼来々」――吉川『三国志』の影響

 ところで、「遼来々」(張遼が来た)ということばを聞いたことがあるでしょうか。呉では子供が泣いた時に、「遼来々」とおどせば、泣き止まない子はなかったというのです。孫権軍との戦いで活躍した張遼が、いかに呉の人に怖れられていたかを示すエピソードといえましょう。三国志人気の高まりにともなって、最近ではこの「遼来々」ということばを知っている人も増えてきました。

 ところが、このエピソードは正史『三国志』やその注には見えません。また、小説『三国志演義』では、似たようなことは書かれているものの、「遼来々」ということばは出てきません。実はこのエピソードは、唐代に著された児童用教科書『蒙求』の注釈にあります。しかし、そこに見える泣く子を黙らせることばは「遼来々」ではなく、「遼来遼来」です。つまり、正しくは「遼来遼来」なのです。

それでは、なぜ「遼来々」が人口に膾炙してしまったのでしょうか。その答えは、長らく日本の三国志文化のスタンダードとなってきた吉川英治氏の小説『三国志』にあります。

 吉川『三国志』が、中国小説『三国志演義』に直接もとづいたものではなく、江戸時代の湖南文山による邦訳『通俗三国志』を翻案したものであることはつとに知られています。この『通俗三国志』には、孫権軍との戦いにおける張遼の活躍を描いた後に、呉では「遼来遼来」と言えば子供は泣き止んだというエピソードが加えられています。このエピソードの出典となった『蒙求』は、平安時代以降、日本でも教科書として用いられ、江戸時代には数多くの刊本が出版されました。湖南文山が、当時よく知られた『蒙求』に見える逸話をとりこんだのも自然なことでしょう。吉川氏は、『通俗三国志』にあった「遼来遼来」ということばを、おそらくより印象深くするために、「遼来々。遼来々」と変更したのでした。

 この変更自体は、本来、とりたてて目くじら立てるほどのことではないのですが、戦後日本における吉川『三国志』の影響は大きすぎました。「遼来々」の方が広く知られるようになってしまった原因は、ひとえに吉川『三国志』にあります。いや、日本だけではありません。本家中国でも日本のゲームを通して、あろうことか「遼来々」の方がよく知られてしまっているのです。このことはゲーム等の三国志作品が原作の『三国志演義』や正史『三国志』を見ずに、吉川『三国志』、またはその影響を受けた作品に依拠したことを如実に物語っています。吉川『三国志』の影響には、誤った知識を広めてしまった負の部分もあることを認識させられます。(文学部中国文学科 伊藤晋太郎)

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