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第2回 周瑜

周瑜
周瑜【しゅう・ゆ】 175~210
字は公瑾。廬江郡舒県(安徽省廬江県西南)の人。呉の基を築いた孫策とその弟の孫権に仕えた。早く から曹操への対抗策において卓見を示し、「赤壁の戦い」で曹操軍を破って、曹操の天下統一を頓挫させた。呉の草創期における最大の功臣。小説『三国志演義』では劉備の軍師・諸葛孔明と張り合おうとする狭量な人物として描かれる。

 昨秋PartⅠが、今春PartⅡが公開されたジョン・ウー監督の『レッドクリフ』。この映画の主役が孫権軍の総司令官として曹操の大軍を討ち破った周瑜です。 この周瑜も「三国志」の登場人物の中では高い人気を誇るキャラクターの一人 です。

 第1回でとりあげた趙雲とは異なり、歴史書の正史『三国志』において すでに「姿貌有り」(器量がよい)と記されているように、本当に美男子だったことも 周瑜人気の大きな要因です。

歴史上の周瑜

地図

 周瑜とはいかなる人物だったのでしょうか。正史『三国志』とその注に引かれた史書の記載に沿って見ていきましょう。

 周瑜は、廬江郡舒県(安徽省廬江県西南)の出身であり、その一族は朝廷の大臣も出していた名家です。周瑜自身も「周郎」(周の若様)と呼ばれていました。外貌についても「背が高く体は大きくて丈夫であり、器量もよかった」と記録されています。

董卓が政権を壟断した時、孫権の父・孫堅は義兵を挙げて董卓を討ちました。その際、孫堅は家を舒県に移しています。この時に周瑜は孫堅の息子の孫策と知り合いました。二人は同い年だったこともあり、意気投合して親密に交際します。

 孫堅の死後、後を継いだ孫策は自己の領土を獲得するため、江東(長江下流地域)進出に乗り出しました。周瑜もこれに協力し、孫策軍は連戦連勝で次々と勢力を拡大していきました。皖(安徽省潜山県)を攻め落とした時、橋公の二人の娘を手に入れます。二人とも絶世の美女でした。孫策は姉を娶り、周瑜は妹を娶りました。この姉妹がかの大橋・小橋です。

 孫策が刺客の凶刃に斃れると、周瑜は後を継いだ弟の孫権をいち早く支持し、孫策の時と同様に忠実に仕えました。曹操が孫権の息子を人質として差し出すよう要求してきた時には、拒否するように進言しています。この時から一貫して周瑜は反曹を唱え続けます。

 北方を平定した曹操は、いよいよ南征に乗り出しました。荊州を下して劉備を敗走させると、孫権に狙いを定めます。この時も周瑜は一貫して抗戦を主張しました。降服派を沈黙させ、孫権を説得して開戦を決断させます。孫権は劉備と同盟し、周瑜の指揮の下、火攻めによって曹操軍を討ち破りました。映画『レッドクリフ』の題材となった「赤壁の戦い」です。

 周瑜は曹操軍を追撃して荊州の南郡を攻めます。一年にもわたる攻防の末、周瑜は南郡を落としました。しかし、この間に流れ矢に当たって右わき腹を負傷しています。

 この後、周瑜は荊州の長江南岸の地を劉備に分け与えます。しかし、劉備はこれでも士民を養うのに足りないと考え、直接孫権のところに荊州の数郡を借りることを頼み込みに行きました。この時、周瑜は孫権に対し、劉備を監禁するよう進言しています。曹操の脅威にさらされている当時の情勢を考えて孫権はこれを拒否しましたが、この一件から周瑜が劉備を危険視していたことが分かります。

 その後、周瑜は益州(蜀)を取ることを孫権に進言し、その準備に向かう途中で病にかかってそのまま死去しました。まだ36歳の若さでした。

周瑜の魅力

 以上に見た歴史書の記載から周瑜の魅力をまとめると次のようになりましょう。

① カッコイイ
すでに何度か触れたように、周瑜が所謂イケメンであったことは歴史書にも記されている通りです。

② 同い年の孫策との君臣関係を超えた厚い友情
弟の孫権に対して変わらぬ忠誠を誓ったのも、孫策との友情に基づいているのでしょう。

③ 明晰な頭脳
「赤壁の戦い」で少ない兵力によって曹操の大軍に勝利できたのは冷静な分析があったからこそです。

④ 若くして死ぬ
新選組の沖田総司の例からも分かるように、若死した美青年には同情が集まりやすいものです。夭折したからこそ永遠に若くてカッコイイというイメージが定着しているのです。

 イケメンでクールな頭脳を持つと同時に情にも厚く、そして永遠に若い――。これだけ魅力的な要素を持っていれば多くのファンを持つのもうなずけます。

『三国志演義』における周瑜

 しかし、文学の「三国志」の集大成である小説『三国志演義』では、周瑜は感情的で狭量な人物とされています。それは、正史と違い、『三国志演義』では諸葛孔明との対立関係が設定されているためです。その対立は、「赤壁の戦い」の場面、および孫権・劉備両勢力による荊州争奪戦の場面に集中して描かれます。

 「赤壁の戦い」の場面では、孔明の才能をおそれた周瑜が将来の禍根を断つために何度か孔明を殺そうとします。有名なのは「草船借箭」(藁束を並べた船で矢を借りる)のエピソードでしょう。短期間で10万本の矢を用意することを周瑜から求められた孔明は、用意できなければ殺されてもかまわないという誓紙を入れ、藁束を並べた船で曹操の陣に接近していきます。川面は濃霧におおわれていたので、曹操軍は矢を射かけるのみ。船の両側にたくさん矢を受けて見事に10万本の矢をせしめました。濃霧の発生を予知していた孔明の勝利です。

 「赤壁の戦い」に勝利した後、同盟関係にあった孫権軍と劉備軍は荊州の領有をめぐって争い始めます。この争いは実質上、周瑜と孔明の知恵比べとなりましたが、常に孔明の方が一枚上手で周瑜は毎回悔しい思いをさせられます。孔明に負けるたびに周瑜は怒りのあまり古傷が破れて倒れてしまいますが、この古傷が破れて倒れる描写を繰り返すことで、周瑜のヒステリックな精神的弱さや孔明に対する劣等性が強調されます。『三国志演義』の周瑜は孔明に散々に打ちのめされ、最後は「瑜を生まれさせた以上、どうして亮(孔明)も生まれさせたのか」と叫んで息絶えます。

『三国志演義』の周瑜描写のしかけ

 10万本の矢集めの話も周瑜と孔明の荊州争奪戦も、いずれもフィクションです。『三国志演義』がこれらのフィクションを仕立て上げたのは、孔明を引き立てるためにほかなりません。『三国志演義』は周瑜を孔明の引き立て役と位置づけているのです。

 ただし、周瑜を一方的に貶めるだけでは孔明を引き立てることはできません。知的かつ人格的に劣った周瑜に勝ったところで、孔明がずば抜けて優れていることにはならないからです。したがって、周瑜もそれなりに優れていることを示す必要があります。そこで、『三国志演義』では孔明と絡まない場面で周瑜の知謀や胆力を際立てるという操作をほどこしています。それによって周瑜も凄いが、孔明はもっと凄いという図式が成り立ち、孔明が本当の意味で引き立つことになるのです。

三国志ジェネレーションと周瑜の逆襲

 日本では1980年代の「三国志」ブーム以降、ゲームや漫画などを通して自分なりの「三国志」の楽しみ方をする人が増えました。「三国志」ブームを少年時代に経験した世代は必ずしも蜀びいきではありません。筆者もその世代ですが、当時は呉をひいきする人が多かった気がします。周瑜や、周瑜と厚い友情で結ばれた孫策に人気が集まっていました。

 そのような世代、「三国志」が身近にある環境で成長した「三国志ジェネレーション」とでも呼ぶべき世代は現在30代~40代前半になり、自分なりに「三国志」を世間に向かって表現できる年齢になりました。最近、塩崎雄二『一騎当千』や真壁太陽・壱河柳乃助『ブレイド三国志』などの漫画、あるいは「鋼鉄三国志」といったアニメなど呉を中心にした作品が相次いで発表されているのも偶然ではないでしょう。これらの作品の中には、『三国志演義』のように周瑜を貶めることなく、周瑜が持つ魅力を活かしているものもあります。「三国志ジェネレーション」の支持を得て、周瑜は本来の魅力を取り戻し、さらにファンを増やしているのです。

 ちなみにジョン・ウー監督は日本人でもなければ「三国志ジェネレーション」でもありませんが、映画『レッドクリフ』が周瑜を主役とし、彼を肯定的に描いていることもまた上で述べた傾向と軌を一にしているといえましょう。

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