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5月13日に新入生歓迎企画として中国古典演劇鑑賞会が開かれました。

中国文学科

 中国文学科では毎年1年生全員を対象に新入生歓迎企画を行っていますが、今年は新しく開設された都市文化デザイン学科と合同で5月13日に中国古典演劇鑑賞会を開催し、新入生に中国の古典芸能に触れていただきました。
以下、中国文学科の学生たちの感想を掲載します。

学生 T.S.さん

 一つ目の劇の「天女散花」では長いたもとを使った動きがとても美しかった。二つ目の変面では、15分程の間で10回くらい面が変わってびっくりした。役の方が近くまで来てくれて観せてくれたが、こんなに近くで観ても分からなかった。この技術は中国の国家機密にも認定されているということで、とてもすばらしいものを観ることができて大満足です。三つ目の孫悟空の劇は登場人物がたくさんいて服装や武器もきらびやかで見とれてしまいました。劇は中国語で語られていましたが、一番最初に京劇の説明をしてくださったり、字幕をつけてくださっていたので、とても楽しめました。1回観ただけでは分からない奥深いものがありそうなので、機会があったらぜひまた拝見させていただきたいです。

学生 U.H.さん

 今まで、京劇というものがどのようなものなのか、全く知らなかったので、今回京劇について細かく色々知る事が出来て良かった。
最初にやっていた「天女散花」では、説明で聞いた通り、女性っぽい動作できれいだなと思った。独特の歩き方など、難しそうですごいと思った。
変面も近くで見てもなにがどうなっているのか全然わからなくて、どうやっているのか本当に気になった。
皆で「好!」と言いながら見るのも楽しいし、盛り上がるなと思った。
中国の伝統芸能は、日本の芸能と違って、衣装の色合いなどとてもハデだったり、立ち回りなども大きく動いたり高く飛んだりと、ハデで見ていてすごく楽しめた。
次また観る機会があったら意味なども調べてからみてみたい。

また、都市文化デザイン学科では、鑑賞会で上演された「西遊記」の一部を取り上げた京劇作品と、「西遊記」の任意の翻案作品とを比較し、分析するというレポート課題が出されました。以下はそのレポートの一部を抜粋したものです。

学生 A.T.さん

 日産の連作CM『日産ノート✕西遊記』では、近代的な高層ビル群の中を孫悟空の乗り物である筋斗雲が滑走し、それが広告の対象である『日産ノート』に変身する、その過程で何か特定の新機能が紹介されるという流れが三本の連作すべてで踏襲される。(中略)TVCMは複数の描写を多層的に行なう。商品の機能の説明、商品の持つイメージの伝達、それを販売、製作、広報する企業のブランドそのものの紹介としてTVCMは構成されている。そのため、フックとなるイメージとして人口に膾炙したイメージとして、神話や伝承、童話等が用いられる。この場合に引用された西遊記は、近代の産物である自動車に合わせて、先に言及した衣装や舞台、しぐさといった要素が近代的なものへと作り替えられている。
一方、京劇の中での孫悟空などの登場人物は、細かいしぐさ、大きな動き、表情などが、神話時代を再現しようとするようになされる。模倣のために行なわれる動作は細やかに制約されており、それゆえに、かえって身体性が明白なものとして観客の視線の前に晒される。そこには、TVCMの中のようにカメラ一つ一つの映さない部分や、後から加えられる注釈は存在せず、舞踊と演技の絶え間ない流れを観客を目撃することとなる。動作と動作の間には、フィルムのような仮の切れ目も、デジタルのような二元化も存在することはない。すなわち、舞台上で行なわれる演目には編集の介在する余地がないということだ。

学生 A.S.さん

 京劇では天界の桃園の番人になったところから始まり、映画『モンキー・マジック 孫悟空誕生』では弼馬温(馬飼い)の位を授かるところから始まる。どちらも後には天界の神々と戦うのだが、このわずかな差異によって京劇と映画とでは孫悟空に対する印象ががらりと変わるのである。
京劇では孫悟空の「暴れん坊」という一面を特に取り上げて演出しており、対照的に映画では、厩に縛り付けられていた馬を解放したり、子分の猿たちに慕われていたりと孫悟空の「優しい」一面が多く取り上げられている。
この違いはなぜ生じるのか。京劇と映画で魅せ方が異なるからではないだろうか。
京劇は映画と違い緊張感がある。どんなにベテランの役者であっても失敗はありうる。その緊張感は役者の息づかいや立ち回り、歌を通して観客に伝わる。戦闘シーンに於いてその緊張感は劇をさらにリアルにするのだ。そのため、戦闘シーンへ円滑に物語が進むよう、孫悟空の「暴れん坊」という一面を多用していると思われる。
一方映画では失敗はありえないので緊張感が生まれずただ淡々と物語が過ぎて行ってしまう。それを防ぐため「優しい」日常のシーンを挟み暴れん坊の一面とのギャップで物語を盛り上げるのではないだろうか。

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