理事長メッセージ

「いままでの140年。これからの140年」

学校法人二松学舎 理事長 水戸英則

学校法人二松學舍は本年10月10日に、創立140周年を迎えます。当時を代表する漢学者、三島中洲先生が、この九段の地に、漢学塾二松學舍を創立、これがルーツとなっています。本年は140周年に因み、原点に立ち返ると云う意味で創設者中洲先生と二松學舍の歴史についてお話しましょう。

さて、中洲先生は、天保元年[1830年]12月9日、備中窪屋郡中島村、現倉敷市中島 の庄屋の家に生まれました。先生は生まれつきひ弱でしたが、性格は人一倍負けきらいで、いつも「よし、いつかきっと学問で日本一になろう」と思っている方でした。14歳の時、備中松山藩儒となった山田方谷に入門し、陽明学、漢学を学びます。18歳の若さで塾頭になります。その後、1852年、22歳の時、津藩で、『和洋折衷』を広めた斎藤拙堂のもとに遊学。1854年24歳の時に、黒船来航の際、浦賀に出向き、著した書物「探辺日録」が認められ、帰郷後藩への出仕を勧められ松山藩に仕官、その後江戸に遊学、昌平坂学問所に入りました。津藩と江戸への遊学中に、玉乃世履(たまのよふみ)や川北梅山、吉田松陰等と出会います。1862年、32歳の時に松山藩主板倉勝静が老中に昇任、山田方谷がこれを補佐、中洲先生も藩の中核の仕事を任せられるようになります。山田方谷の実業の才を傍でみた中洲先生は「君子は利益を賤しむのではなく、義に則った利益の得方・使い方が必要」とする「義利合一論」を唱和するきっかけを掴みました。維新後、明治政府から徴命を受け、東京裁判所聴訟、新治裁判所所長、東京裁判所大審院と経験を積みます。39歳で大審院判事、現在の最高裁判所の判事を務めました。中洲先生は、漢学者として著名ですが、法律家としての横顔も垣間見えます。48歳で廃官した中洲先生は、その年の10月、『漢学塾二松學舍』を創立しました。

漢学塾創立時の明治10年。日本は、文明開化の名のもと、積極的に西洋文明を取り入れていた時代です。その年は、東京大学や学習院など日本の主要な大学が次々に開校しました。漢学を廃する学校が多い中、中洲先生はあえて漢学塾を開学します。その背景は、西洋の進んだ文明を自分たちのものにするためには、先ず東洋の精神・文化を学び、日本人の本来の姿を知ることこそが重要だと考え、東洋学の確立と新時代を担う国家有為の人材育成を目指したのです。従って、二松學舍は一部の若者の注目を集め、創立時42名の塾生は、3年後には280名と一気に増加していきました。

当時の塾の講義風景は、夏は朝8時から始まり、論語、孟子、荘子など、中でも文章規範の講義は、ご自身が大文豪家でもあり、主意を述べ、段説を分けて、文脈を分析し、微に入り細に入り、・・・50畳敷きの講堂に寄宿生、通学生など300人がぎっしり詰めかけて、窓外に立つ生徒もいたと云われています。当時、漢学塾は東京に一つしかなく、また当時陸軍士官学校、司法省法学校も入学試験に漢文を課していたため、塾生が多かったのです。当時の塾の講堂から中庭をのぞむと二本の松があり、講堂の壁には、「二松學舍 舎則」が掲げられ、そこには「漢学ノ目的タル、己ヲ修メ人ヲ治メ、一世有用ノ人物トナルニ在テ、記誦詞章ノ一儒生トナルニ在ラス。」「故ニ仁義道徳ヲ以テ基本トナサヽル可ラス。是経書ノ課アル所以ナリ。」とありました。これが「N’2020 PLAN」の育成する人材像の元となった言葉です。現代的解釈をすると、「日本に根差し道徳心を備え、自ら考え行動できる能力を鍛え、社会のために貢献できる真の国際人を養成する」ということを表した言葉で、現在も二松學舍の「建学の精神」であり、育成する人材像となっています。

漢学塾は、塾生が増え続け、明治14年頃には、本塾の近くに栁塾と梅塾がたてられました。夏目漱石が、入塾したのはちょうどこの頃です。そのほか代表的な卒業生として、犬養毅元総理大臣、日本オリンピックの父と称される嘉納治五郎、女性の権利獲得に奔走した活動家の平塚雷鳥など多くの著名人を輩出しました。

創立以降、二松學舍は時代の変革にあわせて、様々な変化を乗り越えてきました。明治12年の「教育令」、14年に「中学校教則大綱」、同19年中学校令施行など近代的学校制度への移行を背景に二松學舍は、「私立各種学校」となりますが、入学者が減少、同30年代になると、文部省による中等教育での漢文削減・廃止の動きがあり、さらに入学者が激減しました。このような状況を眺め、明治36年、細田謙蔵を中心に東京在住の門下生が集まり、東洋固有の道徳文学を維持拡張することを目的とし、ニ松義会を設立。初代会長に、入江為守が就任、顧問に犬養毅、渋沢栄一などそうそうたるメンバーが名を連ねます。渋沢栄一は、この後、大正8年、舎長理事に就任します。

昭和3年(1928年)には、創立50周年記念事業として、文部省所定の中等学校国語漢文科教員養成を目的とする「専門学校」を開設、初代校長には、山田準先生が就任、以後、教員養成の専門学校として発展していきます。

昭和23年(1948年)、二松學舍附属高校を開校。翌24年、専門学校は、文学部国文学科(定員70名)・中国文学科(同30名)を設置する新制大学へと移行します。昭和38年には、吉田茂元総理大臣を学校法人二松學舍長に推戴。同41年には文学研究科を開設。また昭和44年、附属沼南高校を開校、昭和57年、大学沼南校舎(現柏キャンパス)建設、そして、平成3年には、国際政治経済学部、平成13年には国際政治経済学研究科を各々開設しました。平成16年、現在の二松学舎大学九段1・2号館が竣工。平成21年九段3号館が竣工、同25年、創立135周年を機に長期ビジョン「N’2020 PLAN」を公表、そして現在は、そのアクションプランを実行中です。平成26年末、九段4号館が竣工し、大学九段キャンパスが完成しました。そして本年、創立140周年を期して、文学部は新制大学移行後、約67年ぶりに新学科である定員50名の都市デザイン文化学科を、4月にスタートさせます。また、国際政治経済学部も平成3年以降25年ぶりに、新学科である定員80名の国際経営学科の開設を文部科学省に申請中で、認められれば平成30年度スタートの予定であり、このように二松學舍はいつも前進しております。

スチューデントファーストの考え方の下、二松學舍はこれから新しい教育を展開していきます。「知識・スキル・行動の主体となる人格形成」の3つを三位一体の目標とした、新しい教育を目指し、中等・高等教育を展開していきます。その目標を達成するため「N’2020 PLAN」に続き、本年10月10日に開催する、創立140周年記念式典において、二松學舍の次の世代を展望した「N’2030 PLAN」を公表いたします。そのコンセプトは「原点に戻って、未来を考える」! そして、その目標は「東京の中堅私大から一流私大へ」というものです。引き続き、ご支援・ご協力のほどお願いいたします。

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