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第4回 タイ・チュラーロンコーン大学で漢文を教えてきました  文学部国文学科 教授 磯 水絵

タイの国立大学・チュラーロンコーンには、この10年来、二松学舎の教員が何人も二松の助成によって訪れ、日本文学、文化を教授しています。ですから、随分と親しい関係にあり、感謝もされているのですが、それはひとえにチュラーロンコーン大学文学部東洋言語学科で日本語の講座を担当されるシリモンポーン・スリヤウオンパイサーン女史のご人徳と熱意によるものといっても過言ではありません。筆者が初めて二松でお目にかかった時も、「タイにお出でになったら素敵な王女様のホテルに泊まっていただきます」と、早速、渡タイを勧められたものでした。それから随分、時間が経ちました。

今回筆者がタイに赴いたのは、女史から、プロジェクトタイトル「タイにおける日本研究を促進するための日本漢文紹介」に対して、国際交流基金バンコク事務所の助成がおりたので、「日本での漢文研究の権威である二松学舎大学の教員を派遣してほしい」との要請があったからでした。女史は、タイの人々のために、まさに『漢文』と題する漢文教科書を作成し、その普及に努めておいでの方で、タイで日本語教員を目指す大学院生、あるいは日本語教員を勤める方々の育成に深くかかわっており、彼らが日本文化や日本語の成り立ちに深くかかわる漢文に興味を持ってくれるのは、女史の存在があってのことです。しかし、今回は如何にも急なお話で授業期間でしたから、他の教員にはとても依頼できず、しかも筆者は女史の要請にこれまで応えておりませんでしたから、行かないままに定年を迎えるわけにはいかないと、海外交流センターからの要請を受けることにしたのでした。

で、なるほど用意されていたパトムワン・プリンセスはすばらしいホテルでした。

 尾籠な話ですが、いわゆる旅行ガイドブックによれば、トイレに紙を落としてはいけない、備え付けの箱に入れることとあります(それは中国や台湾でも経験していました)が、そのようなこともなく、しかも地下鉄のサイアム駅に隣接した東急デパート(他に伊勢丹もあるそうです)と、巨大フードコートMBKセンターの間を行くとその先にあるという立地条件のよいホテルで、そこから10分パターヤイ通りを行くとチュラ大でした。ただ送り迎えをしてくださったスリヤさんは、暑いからと歩くのには消極的で、遠回りして学バスで行こうと勧め、結局、学バスのない日曜だけ歩くのに付き合ってくれましたが、汗びっしょりでした。日本でも最近は30度越えはざらですから、筆者はそれほど汗もかかずに行けたのですが、タイの人は冷房の利いた建物からあまり出ようとせず、折角の美しい鳥の声を聞き逃し、樹上を行くリスを見逃しています。

ところで、講義に対する要請は、日本語を学ぶ院生、日本語教員に向けての漢文訓読の教授ということでしたが、聴講生のほとんどが「漢文」という用語自体に初めて接するということでしたから、どうしましょう?という気持ちが先に立ちましたが、そこで、日本の高校生の学ぶ漢文教科書を参考にすることにしました。それなら、タイから来日した折に日本人と漢文の話ができるはずです(そんな場面はなかなかないでしょうが ・・・・・・)。

11月11日(金)11時、前日までに作成した講義資料を詰め込んだ重いバッグを、なくしては大変と自席に持ち込み、やっとのことで棚に押し込んで羽田を出発。時差が2時間、結局7時間かけて現地時間16時にスワンナプーム国際空港に到着し、スリヤさんの出迎えを受けました。スリヤさんは日本企業(伊勢丹)に勤務経験のある、シリモンポーン女史の許で既に博士号を取得した、ポス‐ドクのような存在の方で、結局、4日間送り迎えをしてくださいました。

 日本企業に勤めていた経験からか、時間に正確で助かりましたが、筆者の荷物の重さに驚いていました。それもそのはずで、当初、資料は現地でコピーをと考えていましたが、講義をする土・日曜はコピー屋が休みとの連絡、しかも、想定参加人数は40名ということでしたのに、直前になって70名だという知らせが来ました。それで、結局70名分の資料をコピーして運ぶ羽目に陥ったのです。トランクの半分は紙が詰まっていました。コピー屋は北京大学内で経験していたので驚きはしませんでしたが、休みというのには驚きました。しかも受講者は締切りを過ぎても増え続けていたのです。彼の地では、あえて断るということはしないのだとか。

さて、現地は車での移動が難しいほどの渋滞があるとかで、空港からエアポート・レイル・リンクと地下鉄の乗継ぎで、女史の待つ宿舎に向かいましたが、宿舎到着は結局18時を過ぎました。歓迎会後、部屋に戻ってテレビをつけましたが、国民に愛されたフミポン国王が崩御されて、まだ一月経っていないということで、ご葬儀の場面が繰り返し流されていました。筆者は仏教音楽も研究範囲にあり、僧侶たちの読経を聞くことができて勉強になりましたが、入国審査の場には喪章のリボンがあったり、喪服で行くようにとの大使館、チュラ大からの要請を思うにつけて、国王の偉大さを実感したことでした。

2日(土)午前はタイ語の漢文の講義で、筆者には「猫に小判」でしたから、午前中は自身の講義の準備に当てましたが、少ししてから例の東急デパートをのぞきに行きました。デパートの出入り口にはガードマンがいてバッグの中を点検しますが、あとは日本と変わりません。何日かで一月の喪があけるからでしょうか、黒い服のバーゲンが目立ちました。フードコートに気は魅かれましたが、お腹がこわれないか心配で手が出ませんでした。MBKにはマックもスタバもダンキンドーナツも、何でもありました。

正午にスリヤさんと落ち合い、学バスでチュラ大に向かいました。

ワークショップ会場のチュラ大教養学部の一画にも、国王の祭壇と記帳所が設けられていました。

 13時、「漢文」講座の開会は国際交流基金バンコク日本文化センター次長中島遥香氏の挨拶で始まりました。中島氏、随行のワッタナー・オーンパニット氏(同センター)も聴衆に加わってくださり、盛況の中、筆者の講義は本学の最新の話題、漱石アンドロイドプロジェクトから、同窓生夏目漱石の解説と続けて、漱石という号の由来「漱石枕流」の故事、彼の漢詩「題自画」・「無題」等の紹介、本学所蔵の書画の紹介に及びましたが、それらの多くは高等学校の漢文教科書から抜き出したものでしたから、そうむずかしくはなかったはずです。

 が、途中、朝3時に地方をバスで出てきたという他校聴講生が、帰りのバスの出発に合わせて10人以上中座すると、それを合図に抜ける学生も何人かいて、翌日の講義内容を考えさせられましたが、その後、日本の高校生が学ぶ主要漢文Aとして、「推敲」・「蛇足」・「矛盾」等を紹介し、15時に第一日を終了しました。

夕方、シリモンポーン女史は、お寺の見学をしたいという筆者を、御自身も初めてだとおっしゃりながら、チュラ大の隣の寺院にご案内くださいましたが、研究以外で出歩くことはあまりないという御様子で、スニーカーなのにすぐ歩き疲れ、近くのベンチに座られたので、スリヤさんといい、タイの人は、あまり外は歩かれないのだと納得しました。その寺院には牛が数頭いて長い舌をペロペロと出していたのですが、女史は「臭いでしょう?」と、決して傍には近寄らずに遠巻きにされていたのは愉快でした。そこではタイの寺院のきらびやかな様子、編鐘のような楽器、極楽図のような壁画がみとめられて、筆者にはおもしろいところでした。

 13日(日)は午前、午後、各2時間ずつの講義でしたが、この日はついて来られない人がいないように素読を交えて、日本の高校生が学ぶ主要漢文B、「画竜点睛」・「四面楚歌」・「五十歩百歩」・「過猶不及」等を講義、最後は小学唱歌になった漢文、「蛍光」、「守株」を紹介、「蛍の光」と「待ちぼうけ」をCDで紹介しながら斉唱しました。皆、真剣で、一生懸命ついてきてくれました。お昼には日曜ということで、大学院生手作りの、特別ではないけれども美味しいお弁当をいただき、驚く筆者に、女史は、院生の多くは夫をもち、仕事をもった大人だと説明してくださいました。

日曜の午後ともなると、聴講生は在留邦人と女史の教え子たちに絞られ、女史が謡曲の研究者ということもあったので、視点を変えて、内容を「古典文学と漢詩文」とし、『枕草子』から「香炉峰下新卜山居、草堂初成偶題東壁」(白居易)に及び、次いで『源氏物語』「紅葉賀」から漢詩を光源氏が舞いながら詠ずる舞楽《青海波》をDVDで鑑賞し、漢詩文がどれほど日本の文化、文学に浸透していたかを理解してもらおうと勤めました。

放課後、学部棟に設けられた国王の祭壇に記帳し、すでに教員等をしている女性の社会人大学院生5人が、タイのシルク王といわれたジム トンプソンの家に案内してくれました。アメリカの富裕な建築家であった彼が、第二次大戦後タイに留まり、私財をなげうって復興させたというシルクよりも、その家や調度は興味深く、日本民芸館を思い出させてくれました。

 その夜はCOCAレストランでタイスキを御馳走してもらいましたが、これがタイにおける唯一の息抜きであったでしょうか。左右に魚が好き派と肉が好き派に分かれて二種類のお鍋を作ってくれ、煮上がるごとに中央の筆者に両方からサービスしてくれましたので、お腹一杯いただきました。好奇心旺盛でバイタリティー溢れる院生たちとの交歓は愉快でした。

 14日、月曜は9時から3時間、13時から3時間というシリモンポーン女史の大学院の講座時間を借りての講義で、一番ハードなものでしたが、最後ということで、集まった院生たちの論文指導も行いました。彼らはその資料収集のために日本に来ることになるようですが、家族のある人たちにとって、それはたやすいことではありません。うまく行くことを祈るばかりです。

ところで、この日は陰暦12月の満月の夜に行なわれるロイクラトン祭り(灯篭流し)に当たっていました。スーパームーンの下で行われるその様子を、女史の好意でスリヤ氏が見物に連れて行ってくれましたが、その結果、女史との別れの晩餐に随分と遅れることになり、シーローという軽トラックタクシーに乗ることは、それまで筆者が回避していたことでしたが、それを思い切り飛ばすことになりました。最初で最後の冒険になったことでした。

 15日はラッシュを見越し、朝5時にリムジンタクシーで空港に向かいましたが、空港到着と同時に激しい雨が降ってきて、見送りの大学事務員のパンラナンさんは、それまで一度も雨に遇わなかった筆者の強運に舌をまいていました。女史やスリヤさんはスコールがいやで歩かなかったのでしょうか。(磯 水絵)

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