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第11回 担当教員 瀧田 浩  専門 日本近代文学、ポップスやマンガなどの文化研究

国文学研究⑥A・B(近・現代文学研究③)(日本近代文学、ポップスやマンガなどの文化研究)

講義内容

 大正時代が始まった1912年から、1年ごとに重要な1作品をとりあげ、様々な角度からていねいに分析を進めます(とりあげるのは、森鷗外「かのやうに」「興津弥五右衛門の遺書」、志賀直哉「范の犯罪」、夏目漱石「こころ」、芥川龍之介「大川の水」「羅生門」、武者小路実篤「ある青年の夢」など)。約百年前の文学作品を分析した上で、同時代評・新聞記事・作家の日記や手紙・先行研究などの資料と突き合わせ、文学と社会の密接な結びつきを緻密に検証します。

講義からの豆知識

 精神分析学者のジャック・ラカンは「騙されない者はさまよう」という不思議な言葉を残しています。講義で最初にとりあげる、明治時代の終わりに書かれた森鷗外の小説「かのやうに」は、このラカンの言葉を小説化したような作品です。
 裕福な華族の家に生まれた秀麿は、「人が考えることはすべて虚構であるが、それを真実である〈かのように〉自分の心を騙して、人は世界の信憑性をどうにか手に入れているのだ」という当時の最先端の思想(ファイヒンガーという哲学者の考えです)に影響を受け、この考えに基づく大胆で新しい国家論に頭をめぐらせますが、結局は家のしがらみを抜け出せず、現実的な解決は何も生まれないまま、物語は終わります。
 現代を生きる私たちはおそらく次のような先入観を共有しているでしょう。「自然に囲まれた昔の人は直接世界に触れ、世界を素朴に信じられてよかったが、メディアを介してしか環境に接することができない現代では、世界の手応えがないまま生きていかなくてはならず、苦しい」。しかし、実は百年以上も前から、リアリティーを失い、ふわふわとしか生きられないような生活感覚は、知識人たちの心に浸透しており、その感覚と対峙した思考や作品がすでに生み出されていたのです。

私の授業へのこだわり

授業風景

 一般の人からも国家の教育方針を決める人からもよくなされる質問(あるいは批判)に、「文学を研究することにどんな価値があるのか?」というものがあります。文学部で学ぶ学生には、このような疑問(あるいは批判)に胸を張って答えられるようになって卒業してほしいという強い思いが私にはありますが、利益・便利・効率などを優先する価値観とはちがう、心や精神的なものに照明をあてるのが文学で、それを自由に研究するのが文学研究だから、存在意義があるのだ、と言い張るだけでは、文学を〈学問〉として研究する理由と意義は十分に説明されたとは言えません。
 私は文学研究において〈構造〉〈分析〉〈論証〉を重視しています。学問のすべての領域において、研究対象の〈構造〉を把握し、他の資料をふくめて〈分析〉し、それを自分以外の人にも説得的に伝わるように〈論証〉することは、自明におこなわれています。「文学研究は自由でなければならない」という思いを胸に刻んだ上で、「学問的厳密さにおいて、自然科学や社会科学の学問に負けない厳密さをもたなければならない」という思いも持つ必要があります。文学研究は他の学問以上に手間暇がかかる面がありますが、そのような知だけが新しい時代を切り拓くことができるのだと私は確信しています。

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