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第7回「退避三舎」(退きて三舎を避く)―古代中国の史書『国語』を読む― 文学部中国文学科 小方伴子

 『国語』は古代中国の歴史書です。今でこそ知る人は少ないですが、明治の頃までは『春秋左氏伝』、『史記』、『漢書』と合わせて「左国史漢」と呼ばれ、親しまれていました。徳川御三家のひとつである尾張藩が、『論語』、『毛詩』、『尚書』、『周易』、『春秋左氏伝』などとともに、藩士子弟必読の書に指定していたという記録もあります。

 『国語』には西周(BC1100年頃-BC771)及び春秋時代(BC770‐BC403)の八か国(周、魯、斉、晋、鄭、楚、呉、越)の歴史が記されています。その中でもっとも分量が多いのは晋の国の記録です。春秋時代の晋は、現在の山西省西部、河北省南部、陝西省東部、河南省北部を領有する大国でした。その第二十四代君主が「春秋五覇」のひとり、晋の文公(在位BC636-628)です。

 晋の文公は、名を重耳といいます。父親である献公とその妻驪姫によって国を追われ、臣下とともに逃亡し、十九年間諸国を放浪したことは、「退避三舎」(退きて三舎を避く)、「反璧」(璧を返す)といった成語とともに知られています。

 今回はその「退避三舎」のもとになっている記事を紹介します。諸国放浪中の文公が、楚の国に身を寄せていたときの話です。当時の楚は、揚子江中流域を領有する大国でした。楚の成王は、亡命してきた重耳を酒席に招き、礼を尽くしてもてなします。宴が終わった後、成王は重耳にひとつ質問をします。

 「もし貴方が晋に帰ることができたら、私にどのような礼をしてくださるか」
重耳は再拝稽首して、
「美女や玉帛ならば、貴方さまはお持ちです。翡翠・孔雀の羽根、旄牛の尾、象牙、の皮ならば、貴方さまの土地で得られます。晋国に流れてくるものは、貴方さまの余りものです。ほかに何を差し上げることができましょうか」
しかし成王は引き下がらず、
「それでも聞きたいのだ」
そこで重耳は、次のように答えます。
 「もし貴方さまのお力をもちまして晋に帰ることができ、晋と楚が出兵し、中原で会うことになりましたら、我が晋軍は三舎退きましょう。もしそれでも貴方さまが撤兵の命令を下されなければ、左に鞭と角弓を持ち、右には弓袋と矢袋をつけ、貴方さまの楚軍と一戦を交えましょう。」

図:秦鼎『国語定本』(公文書館所蔵)文化六年(1809)刊

 三舎というのは、軍隊が三日間で進む距離のことです。重耳は楚の成王に、もし将来、楚軍と晋軍とが中原で相対することがあったら、亡命中に世話になった礼として、晋の軍隊を三舎退かせよう、といったのです。先行きのわからない放浪の身としては、何とも不遜ないいようです。『国語』研究の第一人者である大野峻氏は、この一節を、「読む者の心を天下に遊ばしめる迫力がある」と評し、「今や風雲を得ようとする竜虎の意気、そして、長江の大国楚と覇を争わんとする勇武、夷狄の王の友愛に対する心からの感謝の念、一介の無位の好漢の雄弁こそは、後年城濮における晋楚の大決戦の予告編であった」と論じます(新釈漢文大系『国語下』p.476)。
冒頭に述べましたように、明治の頃までは、『国語』は「左国史漢」のひとつとして広く読まれていました。江戸時代の若者たちは、藩校などでこの一節を訓読し、心を天下に遊ばせたことでしょう。左上の写真は、江戸時代後期に、尾張藩の藩校で教鞭をとっていた秦鼎(1761-1831)が訓点と解釈を施した『国語』(『国語定本』)です。尾張藩の若者は、このテキストで『国語』を学びました。「退避三舎」のくだりを書き下すと次のようになります。江戸時代にタイムスリップしたつもりで、声に出して読んでみてください。

 既に饗す。楚子公子に問ふて曰く、「子若しく晋国にらば、何を以て我に報いん。」公子再拝稽首して対へて曰く、「子女玉帛は、則ち君之有り。は則ち君の地に生ぜり。其の晋国に波及する者は、君の余りなり。又何を以て報いん。」王の曰く、「然りと雖も不穀願はくは之を聞かん。」対へて曰く、「若し君の霊を以て晋国に復ることを得、晋・楚治兵し中原に会せば、其れ君を避ること三舎せん。若し命を獲ずんば其れ左にを執り右にけて以て君と周旋せん。」

 漢文訓読には訓点を施した人の解釈が反映されます。助詞や助動詞の選択などは、訓読者の好みによっても変わってきます。さらに時代によって、活用の異なる語彙もあります。 次に挙げるのは、江戸時代初期の儒学者林羅山(1583-1657)の訓読です。秦鼎の訓読とは、少しばかり異なっています。江戸時代初期にタイムスリップしたつもりで読んでみてください。

 既に饗して、楚子公子に問ひて曰く、「子若しく晋の国にらば、何を以てか我に報ひん。」公子再拝稽首して対へて曰く、「子女玉帛、君之有り。は、君の地にる。其のりの晋の国に及ばんは、君の余りなり。又何を以てか報ひん。」王の曰く、「然りと雖も不穀願はくは之を聞かん。」対へて曰く、「若し君の霊を以て晋の国に復ることを得て、晋・楚治兵して中原に会せんとき、其れ君を避ること三舎せん。若し命を獲ずんば其れ左にを執り右にをけて以て君と周旋せん。」

 秦鼎、林羅山それぞれの訓読を、味わっていただけましたでしょうか。「問ふて」、「報ひん」など、イレギュラーな活用がみられますが、江戸時代の版本には珍しくないものです。むげに誤りだと退けず、江戸時代の読者が読んだように、取りあえずそのまま受け取るのが、古人との対話を楽しむやり方です。
ところでこの重耳ですが、「晋語」篇全体を通して読むと、「竜虎の意気」、「武勇」、「雄弁」といった評価とは異なる人物像が浮かび上がってきます。それがどのような人物像であるかについては、別の機会に改めてお話しさせていただきたいと思います。

(文学部中国文学科 小方伴子)

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