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第4回 「臥遊」の楽しみ ―中国絵画の世界― 文学部中国文学科 田中 正樹

 中国には「臥遊」という古典に基づく言葉・概念があります。「臥して遊ぶ」つまり「身をよこたえたまま山水に遊ぶ」というほどの意味ですが、これはどういう状況を示しているのでしょうか。ここでは、この「臥遊」を手掛かりに、中国的な心の楽しませ方―特にストレスの多い現代社会に生きる我々にとってお金をかけずにできる精神的な楽しみ―についてお話したいと思います。

 この言葉には「遊」という字が使われており「あそぶ」と読みますが、意味は「出かける」「各地をまわる」ことです。先ほど「山水に」という言葉を補って説明したのには理由があります。それは「臥遊」が、中国の南北朝時代、南朝の宋の知識人宗炳(375-443)の次のエピソードに由来するからです。

 宗炳は書と絵画、そして琴の名手で、「山水」を好み、各地の名山を登って楽しんでいました。しかし、年を取り病気がちになると、嘆いて言うことには、「もう名山をあまねく訪れることはできないだろう。これからはただ心を澄ませ、道(世界の根源的な原理)を静かに見つめ、身を横たえたままで名山を訪ねよう(臥して以て之に遊ばん)」と。そして以前巡り歩いた名山の絵を壁に描き、いつもその絵と向かい合って過ごしました。

 つまり「臥遊」とは、部屋に居ながらにして、山水画を媒介として仮想的に―ヴァーチャル・リアリティーとして―「山水」即ち美しい風景の広がりの中に身を置く(置いたかの如く心を遊ばせる)ことなのです。現代的に翻訳すれば「観光地の写真を見て行った気になること」か、と思うかもしれませんが、実はその境地はかなり異なっています。ここで重要なのは宗炳が書画(視覚芸術)と琴(聴覚芸術)の名手であったこと、そして山水画を見るに際して精神を清らかにし、世界の根源としての「道」という知覚不可能な原理を観照するという契機を含んでいること、そして自らの身体と目で体験し心でその道理を得た所の山水を画いた絵画には、現実の山水の道理が宿っている、つまり「山水画」は本来単なる「似姿」以上のリアルな山水(風景)のエッセンスの表現だということです。とすれば、山水画はまさに、人にとっては写真よりもリアルな風景の記録媒体ということになり、そこには視覚情報のみならず音声も、或いは五感の情報すべてが詰まっており、あとはただ自分の「心」という、誰もが持つ謂わば「無料の再生装置」を作動させれば、山水は立ちどころに眼前に展開するのです。(文学部中国文学科 田中 正樹)

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