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第3回 中国文学の魅力 文学部中国文学部 牧角 悦子

 一般的に中国の文学といって思いおこされるのは、主に唐詩、それから論語・孟子、あるいは史記の鴻門の会・四面楚歌といった歴史故事、そして三国志・水滸伝といった長編小説などではないかと思います。それらは、中国の文学を代表する優れた作品であるだけでなく、私たち日本人の文学や考え方にも大きな影響を与えてきた文化でもあります。日本人ほど中国の文化に深い関心を持っている民族はないでしょう。その意味で中国の文学は我々日本人にとって、馴染み深いというよりも、もっと深いつながりを持ったものと言えると思います。

 ところで、これらの中国の文学に向かう時、おそらく皆さんはこれまで、訓読や翻訳を媒介として接してきたことと思います。なかでも訓読法と言うものは日本人が生み出した特殊な智慧で、本来外国文学である中国の文学を、まったくそのまま日本語に当てはめてしまおうというものです。学問といえば中国のものでしかなかった時代にこの技術は編み出され、そして今なお我々の文化の中に息づいています。この訓読法があればこそ、皆さんは高校や中学で、外国文学である中国の文学を、さしたる抵抗も無く直接に鑑賞することができたわけです。しかし、中国の文学は、いかに日本人の文化の中に深く溶け込んでいるとはいえ、本来はフランス文学やドイツ文学などと同じような、外国文学であり、われわれとは異質な風土と民族によって生み出された異文化なのです。同じく漢字は使っていても、それぞれの言葉にまつわる抒情や感性は、日本人のものとは微妙にずれがあったり、時には全く違うものだったりすることもあります。

 わたしが今日「中国文学の魅力」というタイトルでお話したいのは、この我々に近しい中国文学なるものを、いちど中国という異文化の中に戻した時に、おそらくこれまでと違った色彩と様相をもって立ち表れるであろう、その中国文学本来の魅力のことです。広大な黄土平原、あるいはみどり豊な江南地方、そこから生まれた歌や詩は、その土地の光と風とを呼吸して生み出されたものなのですから。

 ひとくちに中国文学といっても、それはとても長い歴史と多彩な形態を持っています。時代で言えば、古代・中世・近世・そして近代。様式でいえば詩あり文章あり、そして小説、戯曲、評論などなどがあります。その全てをお話しすることは不可能ですので、中国の文学において最も重要な詩、その最も古い『詩経』についてお話しようと思います。

 『詩経』は、中国の歴史の中でその存在が確認されている最も古い王朝である殷の時代、次の周王朝、そしてその後の春秋戦国時代にかけて、黄河流域地方で歌われた古代歌謡を集めたものです。古代という時代はどこの国でも同じですが、人々の生活の中に自然の神々が生きて存在していた時代であり、「歌」というものも、神を呼び祈りを捧げる場において集団で歌われた祭祀歌がその本質になります。そこには我々が文学の本質と考える個人の感慨だとか、思想や感情といったものとは少し異質の、古代的な(呪術的なといったほうがいいかもしれませんが)、祈りが歌われています。そもそも歌の起源は、神霊を呼び、その神霊に祈りを捧げるものであり、またその祈りは子孫繁栄と五穀豊穣という人間の最も本能的な欲求が中心におかれていました。そんな素朴な祈りを祭りの場において、音楽とリズムに合わせて歌い踊ったもの、それが古代歌謡としての『詩経』です。孔子が編纂したといわれている現存の『詩経』三百六篇のうち、我々にとって最も馴染み深いのは「桃夭」一篇ではないでしょうか。そこにはこう歌われています。

詩経・召南・桃夭
桃之夭夭  桃の木はわかわかしく
灼灼其華  その花はあかあかと輝く
之子于帰  この子がこうして嫁いでゆけば
宜其室家  家庭はきっとうまくゆく

桃之夭夭  桃の木はわかわかしく
有蕡其実  大きな実がふくらむ
之子于帰  この子がこうして嫁いでゆけば
宜其家室  家庭はきっとうまくゆく

桃之夭夭  桃の木はわかわかしく
其葉蓁蓁  葉も青々としげる
之子于帰  この子がこうして嫁いでゆけば
宜其家人  家庭はきっとうまくゆく

この詩は結婚の祝頌歌であり、嫁ぎゆく乙女の幸福を祈るものです。燃えるように咲く桃の花、嫁ぎゆく若い娘。そして桃の木に実は稔り葉が繁るように一家は繁栄していく。平易な語句と単純なリズムの中に、自然と一体化した命の営みが美しく歌われた詩です。ところで、この詩の中に歌われている「桃」について、それが娘の若々しい美しさを象徴するものだという解釈がなされることが多いのですが、それは実は間違った理解です。もちろんこの詩を読んだ時、最も強烈にイメージされるのは、咲き誇る桃の花と、若く美しい乙女であることは間違いありません。実を結び葉が繁る季節の営みに沿うように、人の生もまた営まれる、その抒情は決して間違ってはいません。しかし、はじめに述べたように、この詩を、うたわれた場としての異次元・異文化の空間に戻す時、我々現代人の感覚だけでは理解することのできない、別の様相と意味合いをこの詩は持つことになるのです。この詩の場合、実は桃という一つの「呪物」の中に、その秘密を解く鍵が眠っています。

 桃という果物から、我々は甘くておいしい桃色の果実を思い浮かべます。でも我々の知っているこの桃は、じつは高度に品種改良された極めて近代的な高級果実であって、古代の、というか品種改良前の桃は、もっと酸味の強い、そして硬い果物でした。この酸味の強い果物のことを酸果樹というのですが、桃やスモモ、そして梅などバラ科の果実は、その酸味が体に良く、特に妊娠中の女性の中毒症に効き目があることから、古代では霊妙なるはたらきをもった「聖なる植物」として、神聖視されていました。特に桃の場合は、その果実だけでなく樹木そのものに辟邪、つまり邪悪を祓う聖なるはたらきがあるとして、人々の生活の中に様々に利用されていました。これは端午の節句に菖蒲湯に入ったり、家の前にヒイラギを掛けておいたりするのと同じ性質の習俗です。つまり、古代社会において桃という一つの自然物は、霊妙なはたらきをもつ「特別なもの」として、人々の祈りと願望を吸い取り、人にも働きかけ、人からも働きかけられる「呪物」となっていたのでした。このような古代社会の習俗を元にこの詩を読むと、ここにうたわれた桃というものが、じつはその花の美しさで乙女を象徴するものではなく、邪気を払い、女性の体を守って子孫繁栄をもたらす「呪物」として、人々の祈りと願望とを歌いこまれたものであったことが分かるのです。

 詩を読む態度というものがあると思います。それはまず書き残されたものと自分が一対一で向き合う時の感覚が第一に重要でしょう。しかしその次に、その詩の書かれた場、空間的にも時間的にも異質なる特定の場を理解することが必要になります。それは、類似することによって、あるいは異質なることによって、いっそうその詩と我々との距離を縮めてくれるものです。異質なるものとして、異次元なるものとして対象を理解する時、感性や感覚だけでは触れ得なかった新しい魅力がそこから立ち表れてくることになります。中国文学に限らず、外国文学の魅力のひとつは、そこにあるのではないでしょうか。 (文学部中国文学科 牧角 悦子)

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