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第1回 趙雲

趙雲
趙雲【ちょう・うん】?~229
字は子龍。常山国真定県(河北省正定県南)の人。劉備の武将。長坂で劉備軍が曹操軍に敗れて敗走した時、よく劉備の子の阿斗(のちの劉禅)を守った。その後、益州攻略や諸葛孔明の北伐に参戦。小説『三国志演義』では活躍の場が増やされ、蜀の五虎大将の一人となる。

 「三国志」に登場するあまたの人物の中でも、高い人気を誇っている一人が趙雲です。

 元末明初の小説『三国志演義』には趙雲の活躍する見せ場がいくつも用意されており、『三国志演義』をもとに改編された最近の「三国志」作品でも趙雲は存分な働きを見せます。

 とくに、長坂の戦いにおいて敵の大軍の中から主君である劉備の息子・阿斗を救出する場面や、諸葛孔明の北伐の際に高齢でありながら敵将を次々に討ち取る華々しい戦いぶりが印象深いのではないでしょうか。

史書に見られる趙雲

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 しかし、『三国志演義』の趙雲の活躍は必ずしも史実通りではありません。例えば、上に挙げた北伐の時の活躍は全くのフィクションです。しかも、歴史書の正史『三国志』には北伐時に敵軍に負けたとも書かれています。また、長坂で阿斗を保護したことは正史にも記されていますが、『三国志演義』が描くような敵の大軍の中を縦横無尽に駆け巡る救出劇は見えません。乱軍の中、阿斗を守って安全に撤退しただけというのが本当のところのようです。

 ただ、趙雲の活躍のうちでも有名なものについては、おおむね正史『三国志』やその注の中に元ネタがあります。つまり、『三国志演義』の主要な趙雲描写は史書に基づいているというわけです。

趙雲の武勇と性格上の魅力

 では、趙雲人気の秘密は『三国志演義』に見られるような武勇にあるのでしょうか。確かに武勇も趙雲人気を支える要素の一つでしょう。しかし、武勇であれば、関羽・張飛・馬超・典韋・呂布などという錚々たる豪傑たちもいます。趙雲の武勇が彼らよりも特に抜きん出ているというわけではありません。

 『三国志演義』を読んでいると、趙雲には武勇以外で他の武将に勝る点があることに気づきます。例えば、赤壁の戦いの時に東南の風を呼んだ諸葛孔明は、周瑜の手から逃れるために趙雲を迎えに寄越させました。

 また、劉備が孫権の妹を娶るために呉へ行った時、孔明が随行に指名したのは劉備の義弟の関羽や張飛ではなく趙雲でした。孔明がいかに趙雲を信頼していたかが読み取れます。戦の場面においても、趙雲は与えられた役割をそつなくきっちりと果たします。その姿はプロフェッショナルな、いわば職人的な軍人といえましょう。『三国志演義』では、確実に任務を遂行する信頼に足る人物として趙雲を描いているのです。

 ほかにも『三国志演義』の趙雲には長所があります。荊州の劉表のもとに身を寄せていた劉備は、宴会の席で劉表配下の蔡瑁に殺されそうになり、檀渓という渓流を渡って辛くも危地を脱したことがありました。劉備の従者でありながら、あいにく別の場所にいた趙雲は、劉備の行方を捜し回るものの出会えません。趙雲は蔡瑁を疑いますが、蔡瑁はしらを切り通します。この時、趙雲は蔡瑁が怪しいことは十分承知していながら、証拠がないため決して軽率なふるまいはせず、大人の対応に終始します。このように趙雲には謹厳で慎重な性格も付与されているわけです。

人気の人物今昔物語

 「三国志」の人物のうち、歴史的に人気を集めてきたのは張飛・関羽・孔明でした。『三国志演義』が登場する以前は張飛の人気が圧倒的に高く、秩序や道徳を打ち破る痛快なキャラクターとして講談や演劇で大衆に親しまれていました。関羽はその死後に神として祀られるようになりましたが、『三国志演義』が書かれた頃には関羽信仰はかなり普及していました。そのため関羽もよい描かれ方をされ、そのことがまた信仰者を増やすという結果になりました。わが国の横浜や神戸などに関羽を祀った関帝廟があるのも、そういった流れに連なるものです。孔明はその天才軍師ぶりにより、古来多くのファンを抱えてきました。張飛や関羽に比べ、今でもその人気は衰えていません。おそらく日中両国において最も人気があるのは孔明でしょう。

 一方、趙雲人気は比較的新しいものです。中国の四川省社会科学院の沈伯俊氏は、時代の変化によって人々の価値観が変わったため、現代の読者は趙雲を好むようになったと指摘しています。張飛や関羽には強烈な個性がありますが、同時に自らを死に追いやるような欠点も持っています。趙雲には強烈な個性はありませんが、欠点もありません。現代人は、個性的ではなくとも欠点がない堅実な人物を好むということなのでしょう。趙雲の誠実かつ慎重で信頼できる人柄が現代人の好みに合致したわけです。

趙雲はイケメンだったのか?

趙雲

 もう一つ、趙雲人気を考える上で忘れてはならない側面があります。それは趙雲の「顔」です。最近の「三国志」作品のうち、漫画やゲーム、映画などのビジュアル作品において、趙雲はおおむねイケメンです。近ごろ、日本でも公開されたダニエル・リー監督の映画『三国志』は趙雲を主人公とした作品ですが、その趙雲を演じたのは中華圏で圧倒的な人気を誇るイケメン・スターのアンディ・ラウでした。

 そもそも趙雲はイケメンだったのでしょうか。正史『三国志』の本文には趙雲の外見についての描写はありません。注に引用された『趙雲別伝』には、趙雲の外見について「雄偉」(体が大きくて堂々としている)とは書かれていますが、イケメンだったのかは分かりません。小説『三国志演義』では、「濃い眉に大きな目、大きな顔に肉づきのよいあご」と描写されています。

 武将として立派な顔つきとはいえましょうが、イケメンとはほど遠い感があります。どちらかというと力士やプロレスラーのような顔つきでしょうか。

中国におけるイケメン趙雲

 中国には絵を中心にして物語を進める「連環画」という読み物(かつて日本の子供向け雑誌に連載されていた絵物語に近い)がありますが、そこに描かれる趙雲は美丈夫です(図参照)。また、中央電視台が製作したテレビドラマ「三国演義」でも、長坂の戦いで阿斗を救う趙雲はイケメンの俳優が演じています。ドラマの趙雲は中国国内で好評を博しただけでなく、ドラマを見て趙雲のファンになったタイの王族もいたとか。上述の映画『三国志』も含めて今の中国では「趙雲=イケメン」というイメージが定着しているようです(ジョン・ウー監督の映画『レッドクリフ』の趙雲も美丈夫に分類されましょう)。

 中国でこのような趙雲像が定着したのは、明らかに京劇などのお芝居の影響でしょう。京劇では「武生」という立ち回りを主とする役柄の役者が趙雲を演じますが、長坂の戦いや赤壁の戦いの頃の趙雲はひげもなく、若々しくさっそうとしていて、ひげのある劉備・関羽・張飛・孔明とは一線を画します。こういったお芝居の趙雲が中国における趙雲像のもとになっているのでしょう。

日本におけるイケメン趙雲

 日本の場合はどうでしょうか。江戸時代の『絵本通俗三国志』には、葛飾北斎の高弟の葛飾戴斗が挿絵を描いていますが、その趙雲はひげの濃いむさい男です。1971年に連載が始まった横山光輝氏の漫画『三国志』の趙雲も偉丈夫ではありますが、イケメンとは呼べないでしょう。おそらく日本における最初のイケメン趙雲は、1982~84年に放送されたNHKの「人形劇 三国志」における人形美術家・川本喜八郎氏による趙雲であろうと思われます。それ以後の漫画やアニメ、ゲームなどのビジュアル作品における趙雲はおおむね美形ですから、日本でのイケメン趙雲像は人形劇の影響が大きいのではないでしょうか。

 武勇、誠実さと慎重さ、そしてイケメン――。時を経るにつれ、趙雲には美点が付加されていきました。人々の価値観の変化ともあいまって、趙雲の人気が高まらない方が不思議というべきなのかもしれません。

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