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タイ出張記 11月11日(金)~15日(火) チュラーロンコーン大学における漢文ワークショップについて 副学長 磯 水絵

 急に漢文を教授しにタイ・バンコクに行った。国際交流基金の助成事業として認められたとのチュラーロンコーン大学・シリモンポーン女史からの要請に応じたのである。同大にはCOE以来、本学の助成によって毎年本学教員が日本文学、文化の教授に伺っていたが、今回は国際交流基金による初めての試みであった。要請内容は、タイの日本語を学ぶ大学院生、日本語教員に向けての漢文訓読の教授であったが、聴講生のほとんどは「漢文」という用語自体に初めて接するという説明であったから、随分内容を考えなければならなかった。それでも折角の「漢文」を紹介できる機会である。蛮勇をふるって挑戦することにした。本来、適任者は他にあったかも知れない。しかし、交流基金に通ったのが9月末、11月第2週に実施というタイトな日程であったから日にちがなく、しかも中3日は午前・午後に講義が組まれ、前後1日が移動ということであったから、観光どころではなく、しかも前国王の喪中ということで、関係諸方からは喪服でとの要請があった。

 さて、11月11日(金)11時、前日までに作成した講義資料を詰め込んだ重いバッグを失くしては大変と自席に持ち込んで羽田を出発。時差が2時間で、現地時間16時にスワンナプーム国際空港に到着し、スリヤさんの出迎えを受ける。スリヤさんは日本企業に勤務経験のある、シリモンポーン女史の許で既に博士号を取得した、謂わば、ポス‐ドクのような存在で、結局、4日間帯同してくださった。時間に正確でありがたかった。

 現地は車での移動が難しいほどの渋滞が予想されるというので、空港からはエアポート・レイル・リンクと地下鉄の乗継ぎで、女史の待つ宿舎に向かったが、宿舎到着は結局18時を過ぎた。早速、夕食を頂きながら翌日の講義内容を検討する。翌日午前には女史がタイ語で「漢文」の解説を2時間して筆者の午後の講義に繋げるということであったが、その間に、12日の聴講生が60人から70人超に増え、その中にはチュラ大以外からの学生や、現地邦人、一般が含まれること、13日の聴講生が前日と同じとは限らないこと、14日はチュラ大の大学院生が中心になること等が判明し、一綴りにしてきた講義資料は1日づつに分けなければならないことになった。幸いにそれはスリヤ氏が手際よく翌日までにやってきてくれたので事なきを得たが、タイの方々は締切りが過ぎても申込みを諦めず、また、大学側もそれを容認するのだそうで、そうした慣習を知らなかった筆者は、驚く一方、好奇心旺盛な国民性に好もしさも覚えた。

講義風景


 12日(土)午前はタイ語の講義で、筆者には「猫に小判」であったから、午前中は自身の講義の準備に当て、昼過ぎに学バスでチュラ大に向かう。

 13時、「漢文」講座の開会は国際交流基金バンコク日本文化センター次長中島遥香氏の挨拶に始まった。中島氏、随行のワッタナー・オーンパニット氏(同センター)も聴衆に加わり、盛況の中、筆者の講義は本学の最新の話題、漱石アンドロイドプロジェクトから、同窓生夏目漱石の解説に繋げ、漱石という号の由来「漱石枕流」の故事、彼の漢詩「題自画」・「無題」等の紹介に続いて、本学所蔵の書画の紹介に及んだ。「漢文」が最近まで特に男性の教養として生きていたことを、漱石の事績を借りて解説したつもりである。途中、朝3時には地方をバスで出てきたという聴講生が、帰りのバスの出発に合わせて10人以上中座するというハプニングもあったが、その後、日本の高校生が学ぶ主要漢文Aとして、「推敲」・「蛇足」・「矛盾」等を紹介し、15時に第一日を無事終了した。夕方、シリモンポーン女史は、お寺の見学をしたいという筆者を、御自身も初めてという近くの寺院にご案内くださったが、研究以外で出歩くことはあまりない御様子で、お疲れなのにと申し訳なかった。本当に旺盛な知識欲で、食事の合い間の女史との会話はそれに尽くされた。

左 : シリモンポーン先生(チュラーロンコーン大学)
中央 : 副学長 磯 水絵
右 : プラニー チョンスチャリタム先生(東京国際大学)

 13日(日)は午前が10時から、午後が13時からで、各2時間ずつの講義であったが、この日は、ついて来られない人がないよう、午前中は素読を交えて、日本の高校生が学ぶ主要漢文B、「画竜点睛」・「四面楚歌」・「五十歩百歩」・「過猶不及」を講義、最後には小学唱歌になった漢文として「蛍光」、「守株」を紹介し、「蛍の光」と「待ちぼうけ」をCDで紹介、皆で斉唱、そのCDを贈呈して終わった。お昼には、日曜ということで、大学院生手作りのお弁当をいただく。

 日曜の午後ともなると、聴講生は在留邦人と女史の教え子たちに絞られ、女史が謡曲の研究者ということもあったので、視点を変え、内容を「古典文学と漢詩文」として、『枕草子』から「香炉峰下新卜山居、草堂初成偶題東壁」(白居易)に及び、次いで「『源氏物語』と音楽」と題して、「紅葉賀」から漢詩を光源氏が舞いながら詠ずることになっている舞楽の《青海波》をDVDで鑑賞し、最後に「源氏物語の音楽」と題するDVDを女史に贈呈して終わった。漢詩文がどれほど日本の文化、文学に浸透しているかを示したつもりである。なお、この日午前の部までを受講した他大学の学生等には修了証が渡された。

 放課後、学部棟に設けられた前国王の祭壇に記帳。その後、すでに教員等をしている女性の社会人大学院生5人が、ジム トンプソン ハウスに案内してくれて、夜はCOCAレストランでタイスキを御馳走してくれた。これがタイにおける唯一の息抜きであったか。しかし、そこでも好奇心旺盛な院生たちの質問攻めに遭い、うれしい悲鳴をあげた。また、これまでの本学からの派遣教員の営みを聞くにつけても、COE以来の活動は、確実に文化の種を蒔き、育てていると感じたことである。

祭壇前での記帳

 14日、月曜は9時から3時間、13時から3時間という、シリモンポーン女史の大学院の講座時間を借りての講義で、渡タイ前にすでに知らせてもらっていた院生の研究課題から、午前中は説話を博士論文に取り上げる院生のために、六国史以来の「浦嶋子」、所謂「浦島太郎」伝説を取り上げて、漢文体の記紀や万葉から和漢混淆文体の説話、仮名文体の御伽草子へと、内容はもちろん、文体も変化する伝承の変容の状況を解説し、現代日本語が成立するまでの日本の文体の推移、多様性を述べて、「日本漢文」が近世からだけでは理解できないことも意識してもらった。午後は前日の夜に聞いた院生の希望に沿って、各自の研究課題を述べてもらっての一問一答形式で、しばし、漢文を離れての論文指導会となった。翌日早朝に離タイするため、ここで時間を取ったわけである。この日はタイ最後の夜ということで、タイトな時間ではあったが、女史の好意で、折からのロイクラトン祭り(灯篭流し)の様子をスリヤ氏が見物に連れて行ってくれた。結果、女史との別れの晩餐に随分と遅れることになり、シーローという軽トラックタクシーを飛ばす羽目になった。国王の慎みの中の灯篭流しは、慎ましいものであったというが、満月(スーパームーン)の下のそれは、筆者には随分と盛大に見えたことであった。

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